79.逃亡劇

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79.逃亡劇

 うるさく脈打つ心臓を抑えて声を殺していたら、ピエロは赤く裂けた口を開いて言葉を発した。 「テオドルス皇子、ご結婚おめでとうございます。お二方の新しい門出をこうして祝えることは喜ばしい限りです」 「………何をしに来たんだ?」 「おっと、殿下はお忘れですか?私は親しい友人として、殿下が直々にリクエストされた三つのプレゼントをお届けに参上したのです」 「………っ!」  テオドルスの顔色が変わるのが見て取れた。  彼が以前話したことが正しければ、皇子がリクエストしたのはヴィンセントの組織のトップを含む三人の男の首だという。まさかそんな禍々しいものを彼はここで開けて見せようというのだろうか。  同じ恐怖をテオドルスも感じたようで、慌てたようにヴィンセントに近寄って行った。荷台の上を気にする素振りを見せながら、おどけたピエロとの距離を詰める。 「ああ…そうだった!そうだな、忘れていたよ。今ここで開けるのも勿体無いから寝室へ運んでもらおう」  そう言うとすぐさま、控えていた使用人の一人を呼んで荷台を運び出すように命ずる。使用人の男は重たそうに腰を曲げながら、その荷台を押して去って行った。 「さて。では、俺たちは式に戻るとしようか。君とはまた日を改めてゆっくり話そう。妻を待たせているんだ」  振り返って花嫁の方を見るテオドルスに応えるように、花嫁はその細い肩を揺らす。どうやら、妻と呼ばれたことを嬉しく思って笑ったようだった。  しかし、ヴィンセントは立ち去らない。  ピエロは笑顔を浮かべたままで首を傾げた。 「まだサインを戴いていませんが?」 「サイン……?」 「受領書です。約束をお忘れですか?」 「あ、ああ!サインだな!君は本当にユーモアに富んだ男だ。こんな面白い演出をしてくれるなんて!」  テオドルスは周囲に目を走らせつつ、差し出された紙を受け取って筆を走らせる。配送料もいただきます、と申し出る傲慢なピエロの様子に他の参列者たちはそういった芸だと思ったのか、手を叩く者も居た。  私はただ、その異常な様子に口を噤んでいた。  ヴィンセントはいったいどういうつもりなのか。皇子が激怒して「茶番は終わりだ」と喚き散らせば、彼は強制退場させられる。わざわざ顔を白く塗って来たのは、他の人間に皇子とよく似たその顔を見られないための配慮だろうか?  こっそりと、遠くに座る皇帝の様子を窺う。  突然登場したピエロの正体に気付いていないのか、皇帝は何やら皇后と話し込んでいてこっちを見ていない。  受領証と配送料だという小切手を受け取ると、ヴィンセントはやっとテオドルスに頭を下げて礼を言った。そして、どういうわけかこちらに向かって来る。  呆然とする私の手を、白い手袋を嵌めたピエロが掴んだ。 「殿下、式はもう終わりということで、妻を解放していただいても宜しいでしょうか?」 「………っなんだと!?」 「花嫁の付き添い人としてお貸ししましたが、きっともう役目は果たしたと思いますので」  驚いたテオドルスが何かを言う前に、私の側に立ったガーネットが嬉しそうにこちらを振り向いた。 「まぁ!貴女は本当に殿下の友人だったのね」 「………はい…?」 「私、てっきり彼と貴女が深い仲かと思っていましたの。なんだか距離感が近いようだったので。ご結婚されていると聞いて安心しましたわ。疑ってごめんなさい」  そして「ごきげんよう」とドレスの裾を持ち上げてひとつお辞儀をすると、王女は私に微笑んだ。  私は何がなんだか分からないままに、ヴィンセントに手を引かれて走り出す。途中で脱げた靴を拾おうとしたら、近付いて来たピエロに抱き上げられた。 「先生、ひとまず退散です」  この逃亡劇すらも、見せ物の一部だと思ったのか、拍手を送る観客に見送られながら私たちは宮殿を後にした。
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