80.小切手

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80.小切手

 私たちは王宮を出たあと、ひとまず公園へ立ち寄ってヴィンセントの派手なメイクを落とした。タオルなど当たり前に持ち合わせていないので、私は自分のパープルのドレスの裾で水の滴る顔を拭いてやる。  すると、ピエロは見慣れたヴィンセント・アーガイルに戻った。 「………ジュディ先生、」 「頬のところ、怪我してる。どうしたの?」 「また悪いヤツらに虐められました」  そう言ってニコッと笑うヴィンセントを私は小突く。  軽く身体を突いたつもりだったけれど、バランスを崩してその場にしゃがみ込むヴィンセントを見て、私は驚いた。 「ご、ごめんなさい!力が強かった?」 「いいえ。少し疲れているだけです」 「でも……!」 「行きましょう。まだ安心出来ませんから」  私は、手を取って歩き出すヴィンセントを観察する。  ぱっと見の外見からは、目立った怪我はないように見える。だけど先ほどの反応は気になった。  それに加えて、彼が登場した際に祝いの品として献上した三つの箱の中身に関しても気になる。まさか本当にテオドルスとの約束を果たすようなことをしたのだろうか? 「ヴィンセントくん」  呼び掛けた声に、ヴィンセントは立ち止まる。 「さっきの……箱の中身って……」 「豚の首です」 「え?」 「僕だって人の恨みは買いたくありませんから。少し悪知恵を働かせてみました」 「なんだ、そうなの…」 「はい。二つは豚の首です」  私はゴクリと生唾を飲む。  ヴィンセントはそれっきり黙って、私の手を握ったまま再びタクシーを呼び止めた。運転手に伝えたのはヴェルザンディの港の名前だったので、私は驚いて顔を上げる。 「ヴェルザンディへ行くの!?」 「そうですね。暫くこの国を離れる必要があります」 「で、でも……!」 「皇子も阿呆ではない。きっと首が偽物だと気付いたら騙した僕を探すでしょう。この紙が有効である内に、僕は他国へ移ろうと考えています」  ピラッと取り出されたのは、二枚の紙。  一枚はヴィンセントとテオドルスの間で交わされた契約書のようで、もう一枚は莫大な金額が記された小切手だった。桁を間違ったのではないかと疑いながら、記憶を巻き戻す。  予期せぬヴィンセントの登場に気を取られていた皇子は、彼がサインした書類の内容に気付かなかったのだろうか。もしくは、気付いていても大ごとになるのを恐れて従ったか。  頭の中で様々な可能性を模索していたら、ヴィンセントが繋いでいた私の手をキュッと握り締めた。 「先生も、一緒に来てくれませんか?」 「……え?」 「僕と一緒に付いて来てほしい。僕は貴女に安定した生活を保証出来ません。いつも幸せを感じられるかは分からない」 「………、」 「すみません…こんな言い方しか出来なくて」  私は、自分を見つめる二つの赤い瞳を覗き込む。 「でも、誰よりも貴方を愛して、何よりも尊重します。先生のこれからの人生が楽しいものになるように、最大限の努力をします」 「……ヴィンセントくん」 「だから…だからどうか、僕を選んでください」  そう言ってヴィンセントは、持ち上げた私の手の甲に口付けを落とした。  私はその賢い番犬から向けられる熱い視線をただ受け止める。赤い瞳の中で、私はどんな顔をしているのか知りたくなった。しかし、覗き込もうと近付くよりも先に、離れていた時間を埋めるようにヴィンセントは私の唇を奪った。  短い呼吸のあとで、二度目のキスは私から。  返事のつもりで大きな背中を抱き寄せた。
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