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83.傘
ヴィンセントはその宣言通り、本当に忠犬のごとく私に寄り添ってくれた。
一週間のほとんどを、私たちは寒さを凌ぐために家の中で過ごしたけれど、退屈ではなかった。晴れて暖かな日には歩いて街まで出ることは出来たし、一番近くの街には図書館があって私は巣篭もり用の本をそこで調達することが出来たから。
本を読んだり、ぼんやりとテレビを見ている間、ヴィンセントもまた同様に自分の好きなことをしているようだった。趣味がないという彼のためにお菓子作りを勧めてみたところ結構ハマったみたいで、今では暇さえあれば一生懸命にレシピ本に向き合っている。
プカラッタ共和国に移住して二週間が経つ頃には、生活もだいぶ安定してきたのもあって、私は仕事を始めることにした。人が多く住む集落まで行くと小さな学校があったので、そこでまた先生になってみることにしたのだ。
私が仕事を見つけて数日後、ヴィンセントもまた近くのレストランで働くことになったと教えてくれた。皇子から受け取ったお金があれば生きていくのには困らないけれど、やはりずっと家で居るとだんだんと退屈してくる。労働も人生においてはスパイス的な役割を果たしているのだと私は知った。
「先生、じゃあ行ってきますね」
「うん。気を付けてね、夜は暗いから」
私は伸ばされた手を取って両手で握り締める。
ヴィンセントは嬉しそうに頬を緩めて、家を出て行った。先ずは注文取りや皿洗いから始まると言っていたけど、思いのほか彼は楽しんでいるようだ。
私は触れ合った手を部屋の明かりに透かしてみる。
私の優しい犬は、飼い主を気遣って必要以上に距離を詰めて来ない。最近ではベッドの中でも少し離れて眠ってくれるので、触れ合う場所にドキドキすることもない。
酷なことをしている、という自覚はある。
ヴィンセントは私に好意を持っていて、私もまた彼のことを愛している。だけど、昔のようにキスをしたり、恋人同士がするような行為に移ったりは出来ない。
(………いつまで被害者面で居るのかしら?)
私はもう助け出されて、真綿のように柔らかな暮らしを手に入れたのに。自分を一番大切にしてくれる彼の優しさに甘えて、まだ踏み出せずに居る。
いい加減、腹を括らなければ。
トラウマに浸っていたら前を向けない。
決意を決めてテレビを付けたところ、今夜は吹雪になるという天気予報が流れていた。ヴィンセントは傘を持って行っただろうか。いつも鍵束だけ持って出て行く彼のことなので、持っていない可能性は非常に高い。
「せっかくだし…ちょっと見学がてら、」
私はテレビを消して、傘を二本手に取った。
迷惑になるといけないからすぐに帰るつもりで。
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