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85.心の声
長時間歩いたからか、家に帰っても何もする気になれなくて、私は自分の部屋でぼーっとしていた。
自分が必要以上にヴィンセントに気を遣わせて、その状態に勝手に安心して甘えていたことを恥じた。このままではその優しさを当然と思って、感謝すらしなくなる日も遠くなかったはずだ。
そんなことを考えていたら、玄関の扉が開く音がした。
ヴィンセントが帰って来たのだと思ったけど、どうやって話を切り出せば良いか分からず、私はそのまま部屋に篭っていた。毛布を被って、布団に顔を沈める。
しかし、なぜか足音は真っ直ぐに私の部屋へ向かって来た。ノックの音がしたので狸寝入りを決め込むか悩んでいたら、鍵の掛かっていないドアは簡単に開かれる。
起きるタイミングを見失って私は沈黙を貫いた。
ヴィンセントの気配が私のベッドに近付く。
「………先生、起きてますか?」
「……寝てます」
遠慮がちに聞く声を無視することは出来ず、私は小さな声で自分はもう睡眠に落ちそうであることを伝える。
「傘、ありがとうございました」
「…うん…いいえ」
「ジュディ先生はいつから僕の姉になったんですか?」
「え?」
驚いて聞き返すと同時に、自分の吐いた嘘を思い出した。
そうだった。私はどんな関係か聞かれて、咄嗟に姉弟だなんて言ってしまったのだ。そして親切な彼女はきっとそのまま「お姉さんからよ」的な感じで伝えたのだろう。
でも図々しく恋人面をして職場に顔を出すよりは、きっとヴィンセントにとっても良いと思うし、そういう関係の確認が済んでいない現状では仕方ない対応と考えられる。
「ああ、あれね。関係を尋ねられたから、つい…」
「僕は先生にとって害のない弟ってことですか?」
頭のそばにヴィンセントが手を置いたのか、シーツが少し引っ張られる感じがした。私は段々と速くなる鼓動がこれ以上乱れないように、そっと心臓に手を当てる。
「違うわ。違うんだけど……」
「僕は先生にとって何ですか?」
「ヴィンセントくんは…私の可愛い教え子で……」
「まだ?」
「えっと、」
「まだ、僕は貴方にとってただの教え子…?」
そろりと顔を向けたら、思ったよりも近くにヴィンセントの顔があった。私の頭の横に置かれた左手を気にしながら私は何と答えるべきか考える。
愛おしいと思っている。
大切だって伝えなければ。
だけど、私が気持ちを言葉にして表す前にヴィンセントの手が毛布に潜り込んできた。ひんやりとした冷たい手が薄い布越しに私の胸の上に置かれる。
「先生はどうして僕とキスしてくれたんですか?なんでその先すら許したんですか?流れで、仕方なく?」
「違うわ……!」
「じゃあ、どうして?先生の心はどこにあるんでしょうね。僕が、探してみても良いですか?」
「……探す?」
私の胸の上に乗った手を退けて、ヴィンセントは代わりにその耳をくっ付ける。そして、心臓の音を聞くかのようにそっと目を閉じた。
「ドクドク鳴ってる…緊張してるんですか?」
「………っ、」
上目がちにそう聞かれれば、私は何も言えなかった。
久しぶりの体温に、近くで話す息遣い。以前は普通だったそうしたものが、すべて新鮮で懐かしい。
待つと言っていた忠犬も不安だったのだろうか、と考えた。
だって彼の瞳は揺れているから。
「僕を先生の最期の男にしてください」
「ヴィンセントくん……」
「べつに触れ合えなくても良いです。そんなの我慢できる。でも、弟なんて思われたくない」
そう言ってヴィンセントは私の額の上に口付けを落とす。
目を閉じると、静かに瞼が震えた。
私はこの真っ直ぐな思いに真摯に向き合う時が来たことを悟った。
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