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86.その愛
「……私ね、ずっと自分の人生を適当に生きて来たの」
こんな話を誰かにすることになると思っていなかったので、紡ぐ言葉が適切なのか分からない。誰かが私を強く欲して、その心を丸ごと手にしたがるなんて思わなかった。
私自身もまた、同じように相手を欲するなんて。
過去の自分が知ればさぞかし驚くだろう。
「安定した生活を送れば、それは正解なんだと思っていたわ。母もずっとそう言い続けていたし、波風が立たない穏やかな生活が幸せなんだって……」
伸びたままの指先をヴィンセントの手が握り締める。
私は応えるように冷たい手を握り返した。
「ベンシモンとの結婚はそういった意味では正解だった。生活は不自由なくて、彼が望むものさえ提供すれば…私はある程度の自由が…」
否、自由と言えたのだろうか?
何も知らずに家の中に閉じこもって彼の帰りを待つ毎日。機嫌を窺って「正解」を探し求める日々。
私が自由に泳いでいた場所は、結局のところ澄んだ水の中ではなくて、濁った水槽の中だったのでは。
「………いいえ、分からないわ。間違っていたのかも。私はベンシモンのことを何も知らなかったし、知ろうともしなかった。それが答えよね」
「じゃあ、どうして五年も一緒に?」
「それで良いと思っていたの。ルーティン化された彼の生活に付き合って、ある程度のことを諦めれば、私は平和に穏やかに暮らせる」
「先生、諦めた先に幸せは無いです」
ヴィンセントは悲しそうに目を伏せた。
「そうね…今はそうだと分かる。でも、あの頃の私は…貴方に出会うまでの私は、知らなかった」
私が幸せと呼んでいたものは、ただの逃げであって、正解だと思って飛び込んだのは「求めることへの放棄」だった。
惰性が生んだ誤った認識、間違いを踏みたくない恐怖心が辿り着いた「在るべき姿」への固執。私はそうやって自分で自分の道を決めて、ゆるやかに己の首を締めていった。
「ヴィンセントくんが教えてくれたの。何も与えなくても受け取れる愛があるってこと。本当に…本当に自分が欲しいものは、諦めるなんて出来ないってこと」
静かに揺れる赤い双眼を見つめる。
「もう私が教えることはないわ。これからは、貴方が私に教えてくれる?どうやったらこの気持ちが伝わるか知りたい」
「ジュディ先生……」
「私は貴方の先生じゃない。これからは、恋人としてそばに置いてほしいの。お願い…一緒に居させて」
緊張で震える私の口元にヴィンセントの指が置かれる。
スッと横へ滑った人差し指は唇の真ん中で止まった。
「恋人で良いんですか?」
「え?」
「僕は欲張りなので、残りの人生全部が欲しいんですが」
「………っな、」
「結婚してください。僕を貴女の世界に入れて」
絡まる指先を私は力を入れて握り込む。
意地っ張りで頑固なジュディ・フォレスト。
どうかこれからは自分の気持ちに素直になって生きていきたい。私を求めてくれる、この愛おしい人を悲しませないように。私自身が、本当の幸せを見つけられるように。
「喜んで……愛してる、ヴィンセント」
悲しいときも、嬉しいときも。
思い出になって振り返るときは、きっと二人で。
私は目を閉じて優しい口付けを受け入れた。
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