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「小夜子、来てるかな」
店の奥に向かって大声で尋ねると、女将の多江ちゃんが小走りに出てきて首を横に振る。
「ありがとう。戻ってくるから自転車置かせて」
「小夜子どう? 大丈夫?」
背中に投げかけられた言葉には気づかないふりをして僕はもと来た道を今度は歩いて下る。汗が滴り落ちる。灰白色の道にはゆらゆらと陽炎が立っている。
植物園の建つ崖の途中に、ぐさりと削られた赤い腹から二本の湧水が勢いよくあふれ出して下へ流れ落ちる場所がある。
四方から集まってくる道はここでひとつになって、坂の上まで続いていく。
バスのロータリーもここが終点で折り返す。
いずれやってくる妻を見逃すことはない。
僕は蝉しぐれの中で、太陽に炙られながら、ざあざあと水が落ちていくのを眺めていた。
ゆらりと水色のワンピースの女が現れた。妻だ。僕はずいぶんと間隔をあけて、妻の後ろをついていく。やはり多江夫婦の店に吸い込まれていった。
妻の姿が店のなかに消えてから僕は少し木陰で待った。汗を引かせるためのつもりだったけれど、本当は心を落ち着けたかったのかもしれない。
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