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多江ちゃんの背中を見送りながら、妻がさも重要なことを教えて上げる、といった風情でーー真剣そのものの面持ちでーー僕に語りかけた。
「ここのお蕎麦おいしいんです。わたしの同級生のうちなんです。おじさんおばさんがふたりでやっているんです」
僕は返事をしない。返事ができない。
「手紙、ありがとう。うれしかったです」
僕は、デニムの尻のポケットから、少し汗を吸ってしんなりとした薄い水色の封筒を取り出した。
「とてもうれしくてね、覚えてしまったんです」
「嘘」
妻は目を見張り、頬を染める。
「前略 先日はありがとうございました」
妻は恥ずかしげに下を向く。
「前略 先日はありがとうございました。圭一さんの知識の豊富さと深さに驚きました。生まれ育った町なのに、ガイセンという言葉を初めて知りましたし、このあたり一帯湧き水が多いこともわたしにとっては当たり前のことで、気に留めたことがありませんでしたが、説明をしていただいて、とても興味が湧きました」
お待ちどうさま、と蕎麦が運ばれてきた。ゴーヤのかき揚げに色鮮やかな夏野菜の天ぷらまでついている。
「きれいだ、きれいだ」と感嘆する僕らに、多江ちゃんは「塩でもつゆでも」、と朗らかに勧めながら、僕に小声で小夜子の調子はどうだと尋ねる。
「変わらないよ。よくなることはない」
おそらく小夜子と僕にとって、毎日訪れる今日が一番いい日になっていくだろう。これからの僕らには欠けていくばかりで満ちることのない月のような生活が待っている。絶望の中に引きずり込まれていく。
滅入りそうになる自分に喝を入れる。大きな声をだす。
「いただきます。これは美味そうだ」
「……そうだ、じゃなくてうまい、ですよ。ゆっくりしていってください。わたしは奥にいますから。用があるときには声かけてください」
多江ちゃんは目の縁を赤くして小さく礼をして奥へ入っていった。
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