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「――それでね、ウチの楓真くん。今後住む所は探すみたいなんだけど落ち着くまではしばらく我が家に居るんだって。だからさ、この機会につかさくんも戻っておいでよ、毎朝早くからおじさんのお迎えは大変でしょ」
楓珠さんは何かある度にうちに戻っておいでと言ってくださる。その優しさにありがたく思いながらも僕ももういい歳だ、いつまでも甘える訳にはいかない、と自分に言い聞かせていた。
「全然大変なんてこと……それに本当に久しぶりの親子水入らずじゃないですか、僕なんかお邪魔できません」
「こら、お邪魔なんて寂しい事言わないの。楓真くんもつかさくんも私の大切な息子なんだから」
「ですが……」
「いつでも頼っていいんだからね。そうだ、今夜久しぶりにディナーしよう。息子も一緒に」
楓珠さんは本当の家族の中になんの迷いもなく僕を呼んでくださる。出会った時から変わらない楓珠さんから与えられる愛情を嬉しく受け止め、ぜひ、楽しみにしています。と今夜の約束を結んだところで木村さんの運転する車は静かに建物のロータリーへと入っていく。
大手IT企業――御門ホールディングス
毎年就職希望倍率は最高値を更新し続け、業績もうなぎ登り。
先祖代々続く歴史ある会社を若くから受け継いだ楓珠さんはそのカリスマ性からさらに時代のニーズをうまく取り入れ大きく発展させてきた。大学も出ていない自分が就職できているのは奇跡としか言えない今最も注目を浴びている業界トップクラスの企業だった。
「それじゃ、本日もお仕事頑張りましょうかね~」
よっこらせ、なんて顔に似合わないつぶやきと共にいち早く扉を開け車外に出てしまう。
「はいどうぞつかさくん。頭ぶつけないように気をつけてね」
「社長…これは僕――私の仕事なのに…」
「いいのいいの好きでやってる事だから」
いち秘書の為に社長自ら扉を開けるだけでなく、わざわざ頭上の車枠を手でガードしてくださるスマートさは何度受けても慣れない。
差し出される手に甘えながらも一歩会社の敷地内に足を踏み落とせばここからは仕事モード。柔らかい表情はそのままに、纏う雰囲気がガラッと変わるさまを間近で見ていれば自然と気持ちが引き締まる。
「行ってらっしゃいませ社長、橘くん」
丁寧に腰を折る木村さんの見送りに会釈で答え、颯爽と歩く社長の一歩後ろを影のように付き従う。正面玄関から社員証を通して受付ロビーを抜ける間、すれ違う社員全員が社長への挨拶を欠かさない。
その反面、高卒のくせに、媚び売りΩ、社長のお気に入り――言葉には出さない無言の視線がじっとりまとわりつく居心地の悪い空間の中でがむしゃらに目の前の背中だけを見つめて着いて行く。誰になんと言われようが気にしない。直接楓珠さんに「もういらない」と言われるまでは、このポストから退くつもりは微塵もなかった。
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