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妻と結婚して半年。
その前に何度か挨拶しに行ったけれど、それから妻の実家へ向かうのは、これで初めてだ。
妻は僕より十ほど年下。
三十を超えた僕が、社会に出たばかりの彼女と結婚するのは、いい顔されないかと思っていたけれど、妻の実家からは特に反対されなかった。
妻の家族は、いい人たちだ。
妻の父は、気難しい表情を浮かべるが、こちらが孤立しないように常に話題を振ってくれる。
妻の母は、独特な雰囲気を持つ人だが、決して人を威圧させるようなものではなく、むしろ気遣いの人だろう。
反対に妻の姉はぼうっとしているが、自然体なのだと思う。こちらが話を振れば、返答が来る。
こう並べれば、いかに僕に良くしてくれているか、他人にも伝わるだろう。
だが、やはり妻の家というのは、『他人の家』だ。要するに、アウェー感がすごい。
「なんだ、そんなこと」と軽く見てはいけない。アウェー感は、時に人の心を殺すのだ。
扱いとしては「お客さん」なので、この家での仕事がない。
オフィスワークのため運動量が減り、食欲は十代のままで太った三十越えの男が、何もしないで椅子に座るのはものすごく気まずい。
「もしかして、家でも家事をしないんじゃ……」「でっかい置物ね……」という目で見られていそうな気がするっていうか、そもそも人が動いている時に自分が座っているのはいたたまれなさすぎる!!
だけどこの家の事がよく分かってない状態で、忙しそうに仕事をしている人を止めて、教えを乞うのも難しい。
そんな中、心の支えとなる存在がいる。
玄関の土間に入った瞬間、上り框にある玄関マットの上に、チョコンと座っている犬がいた。
妻の実家にいる、『パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンディシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ』ちゃん(トイ・プードル、十三歳♀)だ。
長いので皆からは、『ピカちゃん』と呼ばれている。
「ピカ、ただいまー」
妻がそう言うと、妻にはちょっと撫でさせてから、すぐに僕の方に身体を預けた。
「もう、ピカは牧人さん好きだね。私はスルーかい」
妻が呆れた顔をしてピカちゃんに言うが、ピカちゃんはなんのその。
ドテッ! と盛大な音を立てて、床の上に寝転がると、すらりと長い前足をたたんで、僕にお腹を見せた。
撫でると、「余は満足じゃ」とでも言うように、うっとりした顔をする。僕もぬくぬくの体温とフワフワの毛並みに、うっとりする。
「ここで立ち往生するなー、リビングでやれー」
妻の姉がピカちゃんに言うと、ピカちゃんは「仕方ないな……」という感じでしぶしぶ立ち上がる。
そして僕の足元に寄り添いながら、廊下を歩いた。興奮して足を早く動かすせいか、足が八本あるように見える。ピカちゃんの足踏みそう。
「相変わらず、犬の扱いに慣れてるわね」
妻の母が感心したように言う。この家に来る度言われるが、自分ではよくわからない。
だが、犬は大好きだ。
実家でも大型犬を飼っていた。僕が小さい頃から飼っていた犬なので、すでに鬼籍に入っているけれど、今でも鮮やかに彼のことを思い出せる。
ハッハッ、とキラキラした目で見つめるピカちゃんに、僕は力強く頷いた。
「今からピカちゃんの散歩に行ってきます!」
リードを引っつかみ、お散歩道具を入れたバックを持って、僕とピカちゃんは家を飛び出す。
そう。
ピカちゃんはこの家で、僕に仕事を与えてくれる救世主なのである。
散歩をすると、色んな人が声をかけてくれる。
「あらー、ピカちゃん、今日も頑張りよるねー」
畑仕事をしているおばあさんは、仕事の手を止めてやって来たり、
「わんだ! わんだー!」
「ワンだねー」
とてとてと駆け寄る二歳の男の子と、後ろから来るそのお母さんが、僕に許可を得てピカちゃんを撫でたり。
「あれ? いつものお姉さんじゃないじゃん」
部活帰りの男の子たちが、自転車を止めて話しかけてきたり。
本当に犬は偉大だ。いるだけで人に仕事を与え、いるだけでご近所さんとの関係を作ってくれる。
見知らぬ三十越えのおっさんなんて、いるだけで不審者扱いされるのに、犬がいてくれるだけで一瞬で溶け込んでしまう。
ありがとうピカちゃん。ありがとう、この世の全ての犬。
このパスは必ず活かして、もっともっと関係を深めていくよ……!
「ピカの散歩行ってくれる、いい人だよねー……」
「ホントねー」
妻の家族たちがいつもそう話しているのを、散歩中の僕は知らない。
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