それは月にある

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 別に好きだったわけじゃないけれど、どうしてか一番会いたくない人が転校してきた。 「山中雄太です。**の方から引っ越してきました。部活は野球部でした。よろしくお願いします」    彼は頭を上げ、ほっとしたように優しく笑った。あのころから何も変わらないな、とわたしは思う。陽の光みたいな温かくて、裏も表もない笑顔。太陽の光を、晴れた日の空を疎むことがあるように、そういう笑顔が辛い人もいるということを彼は知らない。  彼の席はわたしの後ろになった。慣れない教室の机と机の間を大きな図体で慎重に歩く。そしてわたしのことを忘れているわけもなく、彼は「あ」と声をもらし、席の前で立ち止まった。わたしは見上げるように「久しぶり」と呟いた。彼は右手を上げ、短く刈られた頭をかいた。 「なんだ星野、知り合いなのか?」  と先生が言う。 「小、中で同級生でした」  わたしの代わりに彼が答える。 「ちょうどよかった。何か困ったことがあったら星野に聞いてくれ」 「はい、わかりました」  彼は席について「こんな偶然あるんだ」とわたしに言った。 *    *  *  休み時間になるとわたしの後ろの彼の席には数人の男子が集まった。わたしは彼らの話を耳に入れないように席を立った。小学生じゃないんだ、転校生がアイドルのように扱われて学年中から人が集まるようなことはない。それでも何人かの男女が彼を一目見に教室を覗いていた。要するに高校三年にもなると自分のことでいっぱいいっぱいなのだ。そのうち彼には相応の友達ができて、わたしのことなんて忘れていくのだろう。 「ねえ、ルル。一緒に帰ろうよ」  放課後、下駄箱に上履きを入れていると彼が話しかけてきた。 「中学のころに引っ越したのは知ってたけど、こっちにいたんだ。知らなかったよ」  わたしはうなずきながら、靴を履く。 「ちょっと待って。ええと、俺のどこだ」 「一番下でしょ」  ここ、とわたしは古びた下駄箱を指さす。 「ひっくいな」  彼はほとんど座り込むような体勢で下駄箱に上履きを入れ、靴を取りだした。少しだけ制服が違うからか、彼は注目を集めているような気がした。その隣にいるわたしも同じように見られてる。 「よし、行こう。家どっち?」 「山の方」 「山ってことは方向はいっしょかな。結構遠くね。自転車?」 「バス」 「バスか。じゃあバス停まで」  彼が駐輪場から自転車を取ってくるのを、わたしは正門の前で待つ。わたしの前を何人かの生徒が通り過ぎていく。校庭では運動部が準備運動を始めている。しばらくすると彼が自転車を押してきて「おまたせ」と言った。 「バス停ってどこ? もしかしてすぐそこ?」 「そんなことないよ。ちょっと遠い」  彼は自転車を押して、わたしは歩いて、正門を出た。誰かとこの門を出たのは初めてだった。だから何だというわけじゃないけど、空が広いと思った。銀杏の葉がゆっくり一枚落ちてきて、季節が秋になっていることに気がついた。思えば少し肌寒かった。 「ねえ、その目のこと聞いていいのかな? 前はそうじゃなかったよね」  わたしはうなずく。彼は色の入っていないわたしの左目のことを言っているのだろう。目の色が変わったとき、同じように何人かの人に聞かれた。そのたびにわたしは本当のことを言って場を凍らせてきた。 「おそらくあなたが思っている通りだと思う。この目はわたしが神さまから授かったもの」 「じゃあ君が救世主なの?」  彼は澄んだ泉から小さな石を拾ってくるように言った。我らの祈りが救世主を救い、救世主の祈りが我らを救うのです。毎週のように家々を回りチャイムを押して行ってきた布教。そのたびにわたしは母の横で神に祈ることもできず、心を殺した。 「綺麗な灰色だと思う。月みたいだ」  と彼は言った。同感だった。わたしの左目は本当に綺麗な色をしていた。鏡を見るたび両目がこの色になればいいのにと思うほどだった。欠陥だらけのこの体で唯一完璧なものが左目だった。 「救世主はいない」  二組の靴が小石を踏む音ばかりが響いた。車は一台も通らず、騒がしい学校からは着実に遠ざかっていた。 「だからいま、世界に救いはない。あるのは祈りだけ。わたしたちは祈ることしかできない。でも祈ることはできる」  彼はわたしの話をあのときと同じように黙って聞いていた。違うのは彼が物陰に隠れておらず、わたしの隣にいるということ。 「わたしは藁になれるかもしれない」 「ワラ?」 「縋るもの」  わたしが言うと彼は何か言いたげな顔をした。しかしそれを口にすることはなかった。 「その目があるから」 「そう」  バス停に着くと、わたしたちが来るのを角で待っていたかのようにバスが現れた。3人ほどの学生が先にバスを待っていて、後から来たわたしたちを一瞥してからバスの方へと視線を移した。バスはゆっくりと速度を落とし、ピタリとバス停横に停車した。 「俺ん家、ここからちょっと歩いたところにあるからさ、寄ってかない?」 「うん。ありがとう。でも早く帰らなきゃだから遠慮しとく」 「そっか」 「ねえ、前にも言ったけどあんまりわたしに関わらない方がいいよ。時間の無駄だから」  わたしはそう言ってバスに乗り込んだ。入り口横の一人席に座ると、彼がまだバス停に立っているのが見えた。彼はどうしたらいいかわからず、立ちすくんでいてぼんやりとわたしを見ていた。わたしはそんな彼から目を離して、まぶたを下ろす。しばらくしてバスが動き出したのを感じてから、わたしはおもむろに目を開け、彼がまだバス停にいることを確認した。  ずいぶんと冷たい言い方になってしまったとわたしは反省する。彼はまた明日も話しかけてくれるだろうか。学校で誰かと話すのは久しぶりだった。たったそれだけのことなのに、心は踊りだしてしまいそうなほどの切なさを感じていた。  バスは振り返ることをせず終点まで走り続ける。わたしはこれからあちら側の世界に帰るのだ。憂鬱ではない。わたしにとってはこの世界が正しくない世界なのだ。ただ、それだけのこと。   *   *  *  むかし母が言っていた。「人は色んなことを諦めて、神さまに近づいていくのよ」という言葉がわたしの心にツタのように絡まって離れない。いつしかそれは心の衣服のようになって、わたしを守り、装飾している。諦めこそが美徳なのだという母の考えが、むかしは全く理解できなかったけれど、いまはそれなりに理解できるようになった。母はただ信じているんだ。神さまを。それがどれだけ辛く、難しいことなのかわたしにはわかる。そしてそれがどれだけ母を救ってきたのかも。  父は母に比べて現実的な考えを持っている人だった。外の人々が軽々しく祈るような感覚で神さまを信じている。「もし神がいるのなら、お前や母さんを真っ先に救って、そのあとに信者の人たちを救って、その後にこいつも救ってやるかみたいな感覚で救われれば、俺はそれでいい」それが父の口癖だった。それから付け加えるように母さんには内緒だぞ、と父は言うのだった。  それはつまりわたしにはきちんと信仰をしろと言っているようなものだったけど、それは親が子供に学校に行けと言うのと同じような感覚だったのだと思う。父も母もそれ以外の生き方を知らないのだ。  何度家を出て行こうと思ったかわからない。それでもわたしは家出というものをしたことがないし、両親に反抗したことも数えるほどしかない。子供のわたしは自分の身というもの以外の権力を持っていなかったし、その身を使ったささやかな抵抗も神さまがわたしの手を引いて止めた。  どこへ行っても同じなのだ、と思う。学校に行けば教師という肩書を持っているだけで、国王か何かの大臣のように威張ってる人がいて、その城下町に目を向ければ声が大きいだけの人が威張っている。それならわたしは自分が居やすい方の世界で暮らす。外を知らなければ変に憧れることもない。  *   *   * 「久しぶり。ずっと休んでたけど、どうしたの? みんなに聞いても知らないって言うし」  十日ぶりの学校はいつもより眩しく感じた。クラスに入るとまるでスポットライトで照らされたみたいに、視線が全て私に向いたことがわかった。「あ、今日は来たんだ」と口の中で呟いて視線を戻す。 「サンクチュアリ」 「サンクチュアリー?」 「聖域に行ってたの」  とわたしは言った。彼はわたしの言う聖域について思いをめぐらす。大きな教会のような場所をイメージしているのだろうと思った。実際はそんな明るい場所じゃない。 「遠いの?」 「それは月にある」 「月ってあの月? もちろん比喩かなにかでしょ」 「聖域に比喩なんて存在しない」  わたしがそう言うと彼は黙ってうなずいた。わたしはそんな彼の前を通って席にリュックを置いた。無駄に詰め込まれた教科書がカタンと大きな音を立てた。 「準備とか色々あるの。だからずっと学校休んでた」 「もうすぐ期末テストあるけど、大丈夫なの?」 「わたし大学行かないから大丈夫。それに前はテスト前に二週間近く休んだけど、100番以内には入れた」 「ああ、そうえばルル、頭よかったな」  わたしは適当に相づちを打って、椅子に座った。時計を見ると朝のホームルームまであと五分はあった。また学校生活が始まるのかと思うと憂鬱だった。そんなふうに思っていると、わたしの横に立つ彼の陰から視線を感じた。目を向けると女子三人がこちらを見て何かを話している。陰湿な雰囲気ではない、けど明るい話題でもない。 「勿体ないって思っちゃうなぁ。俺は」  彼は唐突に言った。   「なにが?」 「大学行かないこと。俺馬鹿だからさ、頭良い人って憧れるんだよね。頭良い方が選択肢が多いよ。人生の。俺みたいな多少運動できるくらいのやつは社会に出たらダメダメ」 「そんなことないとは思うけど」  わたしの肯定が珍しかったからか、彼は驚いたような顔をした。それから彼は自分が教室の通路を塞いでいたことに気づき、ごめんと謝りながら背中を反らせて女子を一人通した。彼は自分の席がすぐ後ろにあることを思い出して、席についた。   「それで、参考までに聞かせて欲しんだけど、どうしてそう思うの」  わたしは机と横を向いていた体を少し後ろに向けて彼を見た。誰にも聞かれたくない話でもするかのように大きな体を丸めて、わたしに視線を合わせている。 「あなたはいい人だから、きっと救われるよ」  わたしはそれだけ言うと体の向きを前に戻した。それから彼はしばらく黙ってから「そりゃあよかった」と呟いた。 「じゃあルルが俺を救ってくれるんだ?」 「わたしにそんな力はない」  とわたしは前を向いたまま言った。   *   *    *   「ねえ、星野さんさ、山中くんと仲いいよね。中学校が一緒なんだっけ?」 「そうだけど、一緒なのは小学校かな。中学では話したことない」 「そうなんだ!」  名前は確か晴見……。いつも一緒の二人もいる。 「晴見……さん……ええっとなに?」 「なんでもないよ。ただ訊いただけ」 「そう」  わたしが立ち去ろうとするのを、彼女たちは引き留める。まだ話し終わってないんだけど。 「なに?」 「山中くんのこと紹介してよ」 「紹介」  とわたしは呟く。彼女たちの言いたいことはわかった。確かに彼の周りには常に誰かしらがいた。 「いいよ。話はそれで終わり? わたしトイレ行きたいんだけど」  「うん。ありがとう」  そう言って彼女はにこやかに笑った。  その日の昼休み、彼女たちはお弁当を持って、わたしの席にやってきた。 「星野さん、一緒にお昼食べよ。山中くんも一緒にどう?」 「ん? ああ、俺はかまわないけど」  彼はそう言ってわたしを見た。わたしは何も言わずに彼から目を逸らす。 「やった。じゃあ机並べよう」  彼女たちはそう言って周りの机を移動させて五人席を作った。なんだか小学校とか中学のころに戻ったような気分だった。机を並べながら晴見さんと目が合うと彼女はわたしに向かって口パクで「ありがと」と言った。わたしは何も言わずに小さくうなずいた。  初めのうちはお弁当を食べながら適当に相づちを打って笑っているだけでも、普通になれたみたいな気がして嬉しかった。高校に入ってからずっと一人でお昼を過ごしていたから、人の輪の中に入れるだけで満足だった。しかし次第にわたしはここに居るのがつらくなってきた。  晴見さんたちはいい人だった。わたしに対する偏見もないし、本当はわたしなんてすぐにでも追い出したいはずなのに、わたし込みで彼と仲良くなろうとしている。一緒にいる二人、中島さんと小山さんも必死に友人の恋を手助けしてる。ここにはわたしが想像していたような、陰湿なものは何一つなかった。  それなのに、耐えられなかった。五人で話していたはずなのに、いつの間にかわたしは一人になっていて、彼に対する晴見さんの声色とか、彼女の好意に気づいていながらそれを受け流そうとする彼の態度を目で追っている。黙っているわたしを気づかって、彼や晴見さんが話を振ってくれるのに、素っ気ない態度を取ってしまう。緊張で胃は物を受けつけないのに、沈黙が怖くてどんどん口に食べ物を運んだ。そして限界が来て、わたしは立ち上がってトイレまで走った。  誰もいない個室に入ったときにはもう吐き気は収まっていた。わたしはそのまま崩れるようにトイレの床に座り込んだ。指先が水に触れ、反射的に床から手を離すと、それはわたしの涙だった。  わたしはトイレに座り込んだまま膝を抱えて泣いた。全てが嫌になってしまった。どうしてわたしだけこんな目に合わなきゃいけないのだ。もっと普通に生きたかった。友達がほしいとか、恋人がほしいとかわたしがいつ望んだだろうか。わたしはただ普通に生きていきたいだけなのに。どっちの世界でもいいから普通に生きたいだけなのに、どうしてこんなにも辛いのだろう。苦しいのだろう。わたしは幸せになりたいなんて思っていないのに。  唐突にトイレのドアがノックされ、わたしは涙で濡れた顔を袖で拭って、その場で立ち上がった。   「星野さん、星野さんいる? 大丈夫?」  ドアがまたノックされる。声は晴見さんのものだった。   「ねえ、星野さんだよね、大丈夫?」  またドアが叩かれる。しかししばらく黙っていると、彼女はドアを叩くのをやめた。 「ごめん、嫌だった? わたし星野さんの気持ちとか全然考えてなかった。自分がその……山中くんに近づきたいばっかりで」  彼女がこのドアの向こうでどんな顔をして、どんな思いでわたしに話しかけているのか手に取るようにわかった。しかし彼女にはわたしがドアの向こうでんな顔をして、どんな思いでこの話を聞いているのかわからないのだろうと勝手に思い込む。  わたしはこのトイレ内を監視カメラのように俯瞰する。二人の少女がいる。一人は個室に向かって自らの思いを叫んでいて、もうひとりはただじっと拒否することもできずにそれを聞かされている。この薄いドア一枚だ。このドア一枚が二人の少女を隔てている。   「だからホントにごめん。その、嫌だったよね。なんていうかその、邪魔するみたいで、ていうかその、ホントは邪魔するつもりだったんだ。ホントにごめん。上手く言えないけど最低なことをしたって思う。山中くんにもそう言われた。あんまりこういうのは好きじゃないって。だから……だからってわけじゃないけど、謝りたくて、許してほしいとは言わないから、私は……その……謝りたかったの」  話したいことを言い終えても彼女はしばらくそこに立っていた。わたしからの返事を待っているんだと思った。鍵を開けて外へ出て行くべきだとわたしの神さまは言った。でも手足は棒になったように固まって動かないし、声も金縛りにあったときのように音にならない。「いいよ」とか「ありがとう」とか「ごめんね」のような言葉を彼女にかけなければいけないと思った。その一言で彼女は救われるのだ。それが手に取るようにわかるのに、苦しいほど感じるのに、言葉は喉の奥でバタバタともがくだけで、わたしの口から飛び出すことはない。  五分前の予鈴が鳴って彼女が立ち去ったのを感じた。わたしの身体は途端に力が抜けて、倒れ込むように便器に座った。心臓がゆっくりと大きな音を立てて自らの存在を主張している。わたしは心の曇りを吐き出すように深呼吸を繰り返してから涙を拭った。それからもう一度息を吐きだす。 「大丈夫、大丈夫。これでよかったんだ」  とわたしは呟いた。 *   * *  冬の始まりを知らせるような、秋の終わりだった。空は雲ひとつなく晴れているのに太陽の陽ざしは透明なベールに阻まれているかのように届かない。外に手を出していると指先から侵食していくようにかじかんでいった。マフラーとか手袋とかそういう気の利いたものをそろそろ用意しなければいけないと、今日の朝と同じように思った。吐く息はまだ白くはない。白くなるのはため息だけだった。 「晴見さんには俺の方から言っておいたよ。こういうのはやめてほしいって」   「どうして」  わたしはコートのポケットに両手を入れた。    「どうしてって、ルルが嫌そうだったから」 「言ったよね。わたしに関わらない方がいいよって」 「言われた。時間の無駄だって。でも関わらないでとは言われなかった」  わたしの足先に当たって転がる石ころを見ていた。そんなに強く蹴っていないのに、地面を駆けるみたいに遠くまで転がっていく。その石は排水溝に吸い込まれていった。 「俺に晴見さんたちの方に行けって言ってるんでしょ」 「そう、彼女はいい人だから」 「そのさ、ルルが言う、いい人ってなに?」 「救われるべき人」 「救われるべき人って……まるで自分は違うみたいじゃんか」  彼は声を荒げた。それからすぐに「ごめん」と呟いた。昔から変わってないとわたしは思った。 「俺のお父さん、癌で死んだんだよ。それで母さんの実家のあるこっちに引っ越してきたんだ。母さんは実家とはほとんど縁を切ってたんだけど、背に腹は代えられないって。俺を大学に行かせるんだって。じいちゃんもばあちゃんも貧乏だからお金の面では頼れないけど、一緒に住めば多少は節約になるからって」  ぽつりぽつりと口から零れだすように彼は話した。彼の両親には何度か会ったことがあった。わたしに対して、他の子たちと同じように接してくれた。子供ながらにこの両親に育てられたから、彼はいい人なのだと思った。 「じいちゃんとばあちゃんにルルのことを話したらさ、すごくいい子だって言ってたよ。大変だろうにいつもニコニコ笑てるって」 「え……」 「あれ、ごめん、知ってるもんだと思ってた。そうなんだよ。うちのじいちゃんとばあちゃん」  わたしは声を出すこともできず、ただうなずいた。コートの中でかじかんだ手を強く握った。心臓がせり上がってくるみたいに息が苦しくなって、めまいがした。娘と孫が引っ越してきたと嬉しそうに話す老夫婦がいたことを思い出す。その夫婦にわたしは何と声をかけただろうか。 「他人の俺がとやかく言えるような問題じゃないことはわかってる。わかってるけどさ、後悔したくないし、後悔してほしくないんだよ。ルル、ルルはさ、どうしたいの?」  気がつくとわたしはバス停にいた。向こう側から申し合わせたみたいに時間ぴったりにバスがやってくる。彼はじっとわたしのことを見ていた。いつもそうだ。彼はわたしを見るとき、この世界にはわたししかいないような真剣さでわたしを見つめる。わたしはいつもこの目から逃げてきた。わたしの弱さや心の奥底まで見透かす月光のような視線。 「つき」 「月?」 「わたしは月へ行きたい」 「そっか。うん、わかったよ」  納得したようにうなずく彼に、わたしは首を振る。バスが停車し、ドアが開けられた音でわたしの言葉はかき消されてしまった。次々と人が乗っていくバスに、わたしは彼の手を引いて乗りこんだ。    
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