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「私と死んでくれ」  男のぎらぎらと熱のこもった瞳で凝視され、(りん)は一歩も動けなくなった。  部屋の隅に追い詰められ、呼吸だけが荒くなる。  男は凛に覆いかぶさり、着物の胸元を強引に開いて口づける。男の舌が喉元を這う気持ちの悪さに、背筋がぞわりとした。  男から逃れようと藻掻いている内に、行灯を蹴飛ばしたようだ。  チリチリと火の粉が舞う。油が畳にこぼれ、炎がゆっくりと広がっていく。  凛の首に手をかけたまま、男が薄く笑った。  その笑顔が蛇のようだと思いながら、凛は意識を手放した。  気がつくと、家の天井が見えた。  暖かい布団に体が包まれている。  傍らで心配そうに凜を見ているのは父親の新蔵(しんぞう)だった。 「凜、分かるか。気分はどうじゃ」  新蔵の声に、男の舌と手を思い出して震えた。 「辛い思いをしたな」  新蔵は優しく言うと、震えている凜の頭を優しく撫でた。    新蔵の友人である呉服問屋の長兵衛(ちょうべえ)に頼まれて、凛は呉服問屋、越後屋で働く事になった。  幼い頃に母を亡くし、新蔵と二人暮らしだった凛は、家計の助けになればと働き始めたのは去年の春頃だった。  口数も少なく真面目にコツコツと働く凜に、番頭の咸吉(みなきち)が懸想した。  妻子があり、年も二十ほど違う咸吉へ恋心を抱く事はなかったが、咸吉は事ある毎に凜と二人きりになろうとした。  咸吉の恋心は店内の噂となり、店主の長兵衛の耳にも入った。長兵衛から咸吉へ注意もしていたが、注意をされるほどに、咸吉の凜に対する恋心が募っていき、今生添い遂げられぬならいっそ共に死んで一緒になろうと一方的に考えた咸吉が、ある日行動を起こした。  煙の匂いにいち早く気づいた店の者が、二人を救出し、火も消し止めたので火消しを呼ばずに済んだ。騒ぎにならぬようと、長兵衛の取り計らいで凛はその日の内に多額の給金と共に家に帰された。 「父様(ととさま)、ご心配をおかけして申し訳ございません。大事はござりませぬ」  咸吉を思い出すと、体が震えて吐き気を催したが、凛は気丈に答えた。  そうか、と頷くと新蔵は静かに切り出した。 「凜、そなたの嫁ぎ先が決まった。祝言は明日じゃ」  咸吉の想いを断ち切らせるため、凛の安全のための措置であったが、新蔵は詳しい説明を省いたため、凜は布団の中で、息を飲んだ。
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