3.魔術師

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「ちゃんと話さないとだめですよ、殿下」  咎めるように言う声の方を向くと、黒づくめの服の男が胡坐(あぐら)をかいて座っていた。この一か月、ずっと俺の元に通ってきた男だ。  男は髪と顔を覆っていた布を外した。黒い瞳に茶色の髪、人のよさそうな顔が現れる。 「驚かせて申し訳ありません。私は魔術師のタオ。殿下の御命令の元、これまでサーラ様の元に通っておりました。十年前に父が貴方様とお会いしております」 「父?」 「はい。今は故国(くに)におりますが、こちらで過ごした日々のことを、時折話してくれました」  十年前?  心に沈めていた記憶が浮かび上がる。  空を染める真っ赤な炎。逃げるように走る二頭の馬。夜の中に響く不思議な旋律。 「……さっき、歌が聞こえた。あの夜も従者が歌っていたんだ。まるで馬に聞かせるように」 「馬は夜に走らぬもの。どうしても走らせねばならぬ時に、我らは魔歌(まがうた)を使います。馬の耳は音を捉え、真昼だと思って走ったことでしょう」  ああ、だから馬は何も恐れずに走り続けたのか。世界は広い、魔歌を操る魔術師たちがいる国があると伯父は言った。  俺は体を起こして、クマルの腕の中から抜け出した。眉をぐっと寄せたクマルが唇を噛んでいる。 「あの時、サランは俺と来てはくれなかった」 「……え?」 「ここまで来るのに、十年かかった」  クマルは、自分の顔を片手でそっと撫でた。  見る間に瞼や頬の傷は消え、茶色の髪と目は漆黒に変わる。俺よりずっと年上だったはずの男の顔は、凛々しい若者へと変化を遂げた。  呆然と見上げれば、魔術で姿を変えていたのだと言われた。この国に黒髪黒目の者はおらず、そのままでは目立ちすぎる。クマルとはタオの父の名で、彼の姿をそっくりそのまま写したのだと。  魔術師の技を、俺はこれまで間近で見たことがなかった。内乱でたくさんの人が死に、力のある魔術師たちは皆、他国に逃げてしまった。残されたのは、逃げる力などない者ばかりだ。  黒く澄んだ瞳は、俺から目をそらさない。過去の記憶はぼろぼろと抜け落ちているのに、たちまち十年前の記憶が浮かび上がる。  あの日、港に着いたキフェルは俺の手を引いて歩き出した。俺は、ふと後ろを振り返った。伯父が二頭の馬と一緒に立っている。黙って片手を挙げる姿に、別れを告げているのだと知った。  母の顔が浮かび、俺は立ち止まった。ここは自分の国だ。母や伯父を残してはいけない。俺はキフェルに別れを告げて、伯父の元に走った。自分の名を何度も呼ぶ声だけが耳に張り付いていた。  ――行こう、サラン。 「……まさか、キ……フェル?」
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