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誰かが歌っている。懐かしい旋律がゆるやかに心に満ち、記憶を揺らす。ふっと目を開ければ、キフェルが俺の髪を撫でていた。
「悲しいことは忘れていいんだよ、サラン」
「……キフェル」
「無理に思い出さなくていいんだ」
額に口づけが落ちて、途切れ途切れの記憶が揺れる。
ああ、あれは伯父が残した日記だ。母の名前があって、その後には。
×月×日 ×××、御子を引き渡した後、死を賜る。
『……サラン、お前が最後の一人。お前さえ生きていれば……』
伯父の言葉が耳の奥で渦を巻く。彼は重い病の床でも仕えた一族を忘れなかった。最期の時まで、俺ではない誰かを見ていた。
「キフェル……」
「もういいんだ。サランの心を壊すような者たちはもう、誰もいない。俺と行こう」
「一緒に行ったら、キフェルの迷惑に……ならない?」
「サラン、俺の国はね、魔力の高さが一番大事なんだ。故国に俺より力のある魔術師はいないから、心配しないで。それに、俺の国じゃなくてもいいんだ。サランが行きたい場所に連れていくよ」
「一緒に行けるなら……、どこでもいい」
キフェルは頷いて、俺の髪に口づけた。
「時々だけど、一緒に行けばよかったって思った」
「……知ってたよ。魔歌が教えてくれたから」
魔歌は、歌そのものが力を持つ。
俺があの不思議な歌を思い出す時、キフェルは俺の様子を感じることができたらしい。時折、泣いている姿も見えたと言う。
「すごいんだな、あの歌」
「……うん。ずっと祈ってたよ。サランが嫌なことを忘れて生きてくれますようにって。この国は遠すぎて、力の無い俺にはそれしか出来なかった」
キフェルは優しく俺を抱きしめる。この腕の中にいたら、もう何も怖くない。天を焦がす炎も、旅立つ船を思うこともない。少しずつ、母や伯父の記憶が曖昧になっていく。これじゃあそのうち、この国で暮らしていたことも忘れてしまいそうだ。
「何だか、色々忘れすぎ」
「いいんじゃない? 代わりに俺の事でいっぱいにして」
「えええ……」
「ちょうどいいでしょ。俺は初めて会った時から、サランで胸がいっぱいなんだから」
綺麗な黒い瞳が俺を見る。
……夜、一人きりで怖くなると、お前の瞳を思い出してた。
心の奥にある綺麗なもの。これがあれば、俺は生きていけると。
キフェルがふざけて顔中に口づけるから、くすぐったくて笑ってしまう。
ああ、この先ずっと、キフェルさえ側にいてくれればいい。
「たとえ嫌だって言われても、一緒にいるからね」
「約束な」
あたたかい腕が、しっかりと俺の体を包みこんだ。
【 完 】
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表紙の絵(てんぱるさんフリー素材)は、十年前に二人が別れた海にぴったりだなと思っています。ようやく一緒にいられます。二人を見守っていただき、ありがとうございました!
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