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「お前、俺とどこかで会ったことある?」
「は? 一月前に会ったのが最初だと知っているはずだが」
「そうだよな。ごめん、今の言葉は忘れて」
昔のことを思い出すのは無理だ。俺はところどころ、過去の記憶が抜けている。失くしたものを求めるのはとうにあきらめたはずなのに、時折寂しさがよぎる。
あの男はまた来るのだろうか。その日は結局、まんじりともせずに朝を迎えた。
それから一か月。困ったことが起きていた。
「……これまで、こんなに暇なことはなかったのに」
客が来ないのである。いや、正確に言おう。このところ、俺の元に来る客は一人だけだ。
先日、話をして帰った黒づくめの服の男だけが日を置かず通ってくる。うちの娼館で遊ぶには結構な金がかかるはずなのに、彼は来るたびに時間を延長するようになった。もっとも、指名客が他にいないので、何の問題もないが。
男は娼館に来ているのに、妙に距離を取ろうとする。こちらから近づけば、たちまち体を硬直させてしまう。この場を何とかするのが技量だと、そっと手の一つも握れば、高速で振り払われた。
怪訝な顔をすれば、最初の日にした子どもの頃の話を、もう一度してほしいと言う。仕方なく俺は、過去の話を繰り返した。
それにしても、と思う。俺はいつの間に、贔屓客に見限られていたのだろう。客は花から花へと移るものだ。仕方がないとはいえ心が塞ぐ。自分なりに努力を重ねてきたつもりだったのに。
夜、ろくに体を使わないんだから、朝から目が覚めてしまう。稽古事をこなしても時間が余る。ふと窓の外を見ると、クマルが門を出るのが見えた。こんな甲斐性のなさじゃクマルだって暇だろう。折角の腕も宝の持ち腐れというものだ。
館主は何も言ってこないが、そのうち雷を落とされそうな気がする。せめてご機嫌伺いでもするかと、館主の部屋に向かった。
廊下の途中で若い部屋付きたちが数人、小声で話し込んでいた。人気のある男娼たちはまだ眠っているから、僅かな息抜きの時間だろう。そっと脇を通り過ぎようとした時だった。
「兄さん!」
「うん?」
「おめでとうございます!」
トアが他の部屋付きたちと一緒に走ってくる。皆、頬を染めて目を潤ませていた。
「え? おめでとうって?」
「み、身請けが決まったと聞きました!」
――……身請け?
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