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1.遠い日
「……元気で!」
そう言った途端、あの子は大きな目からボロボロと涙をこぼした。
ああ、綺麗だなと思った。真っ黒な、どこまでも澄んだ夜の瞳。
あの子ほど綺麗な瞳を俺は見たことがなかった。ずっと夜は怖いものだったのに、あの子の瞳を見て初めて、綺麗だなと思ったんだ。黒もいろんな色がある、怖いだけじゃないんだなって。
互いの言葉もろくにわからなかった俺たちだけれど、あの子の心は不思議な位よくわかった。昔、聞いた言葉にあったよな。
――目は口ほどに物を言う。
あの子の瞳はおしゃべりだった。嬉しい、楽しい、これは嫌だと。
口の代わりにたくさんの言葉を瞳が運ぶ。そのおしゃべりを心で感じるのが嬉しかった。言葉がなくてもわかることがあるのを、俺は初めて知ったんだ。
桟橋から思い切り大きく手を振ると、あっという間に船が離れていく。
あの子はずっと、泣き叫んでいる。何度も何度も、たった一つの言葉を繰り返す。
ああ、確かに聞こえたよ。俺の名前を呼んでくれるんだな。白み始めた海に船の形がくっきりと見える。
船の端から海に飛び込もうとしたところを、大柄な従者に必死で抱きかかえられていた。全く身動きがとれない小さな体。
あの子が乗った船は、他の船とは違う。彼らの国の王が直々に送ってきた船だ。間違いなく、あの子は自分の故郷に帰れるだろう。
さよなら、どうかずっと元気で。
故郷に帰って、この国の事は忘れるんだ。
さよなら、さよなら。
――……ずっと、幸せを願っているから。
「サーラ、指名だ」
「ちょっと……待って。後少ししたら……起き、る」
「おい、大丈夫か?」
寝台から起き上がれない俺に、クマルが声をかける。クマルはこの娼館の主人が雇った用心棒だ。どういうわけか俺に付く客はしつこい奴が多くて、いつの間にか刃傷沙汰になることが多い。
普通ならそんな男娼は嫌がられるものだが、俺の客は金払いのいいやつが多い。館主も俺を手離したくはないようで、専用の用心棒を雇った。それがクマルだ。
辺境で何年も傭兵をやっていた男は、体がデカくて人相も悪い。王都の友人に会いがてら娼館に足を運んだところを、俺の客同士が揉めていた。あっという間に二人を伸した腕に、館主が大金を積んだのだ。
この男ならどこでもやっていける。館主の話に乗るわけもないと思っていたのに、翌週には俺付きの用心棒になっていた。
「昨夜の客か?」
「……うん」
「何ですぐに言わない?」
クマルは怒っている。客と同衾している際、部屋に他の者はいない。だが、俺の部屋のすぐ隣の小部屋にはクマルが控えている。薄い壁を三度続けて強く叩けば、すぐに彼が飛び込んでくる手はずになっている。
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