キックオフ

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 静岡県は日本の最高峰、富士山をはるかに見る県だ。それだけではなく、多くの魅力がある。生産量日本一のお茶、サッカー王国、ご当地グルメ。それを求めて多くの人が訪れる。  そんな静岡のご当地グルメの中に、静岡おでんがある。静岡おでんは、酒のつまみとしてだけではなく、駄菓子屋にもあるのが特徴だ。学校帰りに子供が買って食べていき、夜になると大人が酒のつまみとして食べる。それは県外でも知られている。  静岡鉄道の音羽町(おとわちょう)駅の近くに、1件の駄菓子屋がある。駄菓子屋の名前は『てしがわら』。ここを切り盛りしているのは、勅使河原直之(てしがわらなおゆき)とその弟、政(まさし)だ。直之は32歳、政は30歳だ。2人は協力しながら、去年亡くなった父の切り盛りしていたこの駄菓子屋を引き継いでいる。近隣住民の間では大好評で、子供からも人気が高い。基本的に店番をしているのは兄の直之で、政は主におでんの仕込みをしている。今日もいつものように仕事をこなしていた。  今日もいつものように午後4時過ぎに、1人の男の子がやって来た。その男の子は学校帰りのようで、黒いランドセルを背負っている。午後4時ごろに帰るので、中学年が高学年だろう。男の子は清水エスパルスのベンチコートを着ている。どうやらサッカー少年のようだ。 「いらっしゃい!」  男の子は迷うことなく、うまい棒を手にする。すでに決めていたようだ。男の子はレジにうまい棒を出す。 「これください!」 「はい、13円ね」  男の子は20円を出した。すると、直之はお釣りの7円を出す。 「どうもありがとう」  男の子は去っていった。その様子を、仕込んでいた政は嬉しそうに見ている。政は子供が好きなようだ。 「いつ見ても子供はかわいいね」 「うん」  と、政は男の子が来ていた清水エスパルスのベンチコートが気になった。政もサッカーに興味があるようだ。 「あの子、サッカーのユニフォーム着てたな。将来、プロサッカー選手かな?」 「うーん、どうだろう」  だが、政はその男の子の姿を見て、何かを思ったようだ。何か、深い意味があるようだ。だが、直之は平然としている。政がこのような反応をする理由を、直之は知っているようだ。 「入っても活躍できるかどうか、代表になれるかわからないんだけどな」 「うん」  実は政は、元プロサッカー選手だった。静岡市で生まれ育った政は、物心つく頃からボールを蹴って遊んでいた。小学校になると、少年サッカー団に入るようになり、レギュラーになるまでに成長した。中学校を卒業すると、サッカー留学で福岡県に行き、全国大会に出場するまでに力を付けた。その結果、プロに内定した。そして高校を卒業後、プロサッカー選手となった。将来の日本代表候補と言われていた政だったが、ケガでなかなか出場できず。3年で戦力外通告、現役を引退してしまった。活躍できると思ったのに、残念だと思った。それ以来、政は実家の駄菓子屋を手伝っている。サッカー日本代表候補と言われた男は、サッカーとは離れた世界で第二の人生を送っていた。そしてそれ以来、政は夢を持つのが嫌いになってしまった。 「俺みたいにケガですぐにやめてしまうってことにならないでほしいな」 「そうだね」  入れ替わるように、別の男の子がやって来た。その男の子は黒いベンチコートを着ている。普通の男の子のようだが、この子もサッカー少年のようで、清水エスパルスのキーホルダーを付けている。 「お兄ちゃん、大根と黒はんぺんちょうだい!」  すると、政は四角い鍋の中から、大根と黒はんぺんの刺してある串を出した。静岡おでんは、1本1本串に刺してあるのも特徴だ。 「あいよ! 200円ね」  すると、男の子は200円ちょうどを出した。 「どうもありがとう。だし粉や青のりやからしはここから取っててね」 「はーい!」  すると、男の子はだし粉と青のりをかけ、からしを端に添えて去っていった。だし粉と青のりをかけるのも、静岡おでんの特徴だ。中には、この2つが混ざっている場合もある。  と、政は時計を見た。そろそろ5時だ。もうすぐ駄菓子屋は閉店の時間だ。 「はぁ・・・。もうすぐ終わりか」  直之はため息をついた。今日も何事もなく1日が終わった。大好きな子どもたちに愛されて、日々を送る。それだけでとても幸せだ。 「ここでの商売もいいだろ」 「うん」  ふと、政はプロサッカー選手だった頃を思い出した。厳しい練習についていけずに、ケガばかりした日々。自分は活躍できる、日本代表になれる、ヨーロッパに行けると思った日々。だけどそれは、夢のまた夢に終わった。そして今、夢のない生活を送っている。そんな平凡な日々もいい物だと思っている。 「引退して思ったんだ。プロって厳しいとこだなって」 「確かに」  直之も思っている。才能のある政には期待していた。プロに内定した時には、みんなで宴会を開いたぐらいだ。だが、プロの世界は厳しかった。戦力外になった時、家族全員愕然となった。これから活躍できるだろうと思った時に、こうなったのだから。 「プロにならなきゃよかったなって。あれで僕、サッカーをやろうと思わなくなったもん」  政は決意していた。俺はもうサッカーをやらない。ただのファンとして生きる。その方が平和でいいから。そして普通に働き、平凡な日々を送る。夢は大きければ大きいほど、かなわなかったときの絶望は大きいと思っている。だから、夢なんて持たない方がいいと思っていた。 「うんうん。その気持ち、わかるって。あの頃の政って、すごかったよな。エースで、未来の日本代表候補だと」  直之は思い出した。政はエースストライカーで、得点王にはなれなかったものの、将来のエース候補とまで言われた。全国大会ともなれば、家族が来てくれた。ゴールを決めると、みんな喜んでくれた。だけど、それも今では夢のようなもの。もう夢は終わって、ここで静かに余生を送る日々だ。 「そんな時代もあったなー。でも、もう今は駄菓子屋のお兄ちゃんでいる自分がいいなって。子供に囲まれて、夜はおでん屋で酔った客に付き合って」 「うんうん」  実はこの駄菓子屋、夜になると別の顔を持つという。このおでん鍋はリヤカーに載っていて、夜になると音羽町駅の近くで屋台を開くそうだ。これは政が始めた事で、駄菓子屋で余ったおでんを何とかできないかと思った政が、駅の近くで屋台で振る舞おうと思ったのが始まりだ。 「でも、今の自分で満足してるよ。プロのような厳しい世界より、ここでまったり頑張るってのも」 「でしょ?」  直之は笑みを浮かべた。こうして駄菓子屋で平凡に頑張るのもいいもんだと思っている。 「うん」  と、古時計の鐘が鳴った。もう午後5時だ。閉店の時間だ。 「さて、しまいだしまい」  すると、直之は立ち上がり、駄菓子屋のシャッターを閉め始めた。だが、政はおでん鍋の前にいる。午後5時からも、やる事があるからだ。 「さてと、今日も始めるか」 「しかしさぁ、駄菓子屋とおでん屋台の2つの顔って、いい思い付きだよな」  静岡おでんの鍋の下をリヤカーにしたのもそのためだ。直之は政のその考えを素晴らしいと思っていた。 「でしょ? 静岡おでんって、酒のつまみだけど、駄菓子屋にもあるから、こんなのもいいよなって」 「そうそう! わかる!」  そして、政はリヤカーを引いて音羽町駅に向かっていった。だが、電車に乗るためではない。駅の近くで屋台をするためだ。  外は少しずつ暗くなってきた。夏は午後5時半でも明るかったのに、もうすっかり暗くなった。そして、寒さを感じるようになってきた。こんな時こそ、おでんで心も体も温めるのがいいだろう。  音羽町駅の近くにやってくると、政は準備を始めた。その横を、中学生や高校生の自転車が通り過ぎていく。その中には、サッカー部と思われる子供もいる。政は彼らが気になった。だが、俺はもうサッカーはやめた、ただのファンになった。サッカーをやりたいと思わなくなった。  政は開店の午後6時までに準備を終えて、営業を始めた。徐々に仕事帰りの人々が通り過ぎるようになっていく。だが、来る人はまだいない。早く来てほしいな。  と、そこに1人の中年の男性がやって来た。この近くの工場で働いているのか、作業着を着ている。 「あっ、いらっしゃい!」 「お兄ちゃん、瓶ビール」 「あいよ!」  すると、政は用意していた瓶ビールとコップを出し、瓶ビールのふたを開けた。 「どうぞ!」  すぐに、男はビールをコップに注ぎ、口に含んだ。男は疲れているようで、ぐったりとしている。疲れたのなら、ここで休んでいってほしいな。 「何にします?」 「それじゃあ、大根と信田(しのだ)巻きで」  政は鍋から大根と信田巻きを出した。 「はい、どうぞ」  男はすぐに信田巻きを食べた。政は幸せそうにその様子を見ている。 「疲れた?」 「うん。後輩、ちょっと作業が遅いし、スタミナがないけど、だいぶ仕事が板についてきたんじゃない?」  男は、1か月ぐらい前に入った新人の事を話している。まだまだ不慣れで、仕事が遅い。社長は大丈夫か、大丈夫かと言っている。だが、少しずつ仕事に慣れてきたようで、これからに期待だ。 「じゃあ、ここのおでんを食べて力を付けんとな」 「いいじゃん!」  そこに、スーツを着た2人の男がやって来た。どうやら中年のサラリーマンのようだ。 「らっしゃい!」  2人はコートを脱ぎ、席に座った。2人とも疲れているようだ。 「熱燗お願い!」 「じゃあこっちは瓶ビールで」 「はい!」  政はすぐに瓶ビールとコップ、続いて熱燗を出した。 「どうぞ!」 「大根と牛すじで」  右の男はすぐに注文を伝えた。だいぶここに通いなれているようだ。 「こっちは大根と黒はんぺんで」  それに続いて、左の男も注文する。この男も常連客ようだ。 「今日もお疲れ様でしたー! カンパーイ!」 「カンパーイ!」  2人はグラスと徳利で乾杯をした。 「どうぞ!」  間もなくして、政はおでん種を出した。 「疲れたっしょ? 明日は休みだから、ゆっくり休みな」 「うん」  2人はおでん種をおいしそうに食べている。 「やっぱここのおでん、おいしいっすね」 「そうだろ? 俺は子供の頃からここの駄菓子屋のおでんが好きだったんだ」  男は直之の駄菓子屋のおでんが好きだったという。そして、屋台も始めると聞いて、仕事帰りにここに来るようになった。 「そうなんですか?」 「ああ。ここって、朝から夕方は駄菓子屋なんだよ」  後輩は驚いた。昼と夜で別の顔を持っているとは。面白いな。 「そうなんだ」 「駄菓子屋にもあるのが静岡おでんなのさ」 「確かに」  後輩はビールを口に含んだ。そして、牛すじを食べた。
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