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 どいつもこいつも、犬の散歩しすぎじゃね? 近くのコンビニまで徒歩五分の間に、三匹の犬とすれ違った。みな一様に舌を出してご主人を見上げながら歩き、ときには電信柱のにおいを嗅いだりして立ち止まる。俺の顔を見て吠える犬もいた。犬嫌いの俺からしたら地獄の道だった。  俺は「犬は入店お断り」のコンビニに避難する。やる気のない店員の「らっしゃいあせー」という間の抜けた声が妙に心地いい。しばらくプラプラと店内を歩いて昼飯を買い漁り、会計を済ませてさぁ帰ろうとコンビニを出たら。 「おい、そこの灰色の汚いスエットを着た兄ちゃん。オイラの声が聞こえるか?」  下らへんから声がした。確かに俺は灰色のスエットを着ているが、汚いとはなんだ。一応これでも三日前に洗濯したばかりだぞ。 「やんのかコラ……」  睨みを利かせて声のした方を見て、血の気が引いた。 「え、うそ、マジ? 聞こえんの? うわ、野郎かぁ……どうせなら若くてかわいい姉ちゃんがよかったなぁ」  白いふさふさの毛を纏い、舌を出して息を荒げ、これまたふさふさの尻尾を左右に振る、両手で収まるほどの動物。 「……いぬ……」 「ん? どうした兄ちゃん。顔、真っ青だぞ?」 「ひぃぃぃぃぃぃっ! 来るな、寄るな、近づくなぁっ! あっち行けっ! シッシッ!」 「おお、拒否反応がすごいな」  無理無理無理無理マジで無理! 犬とか無理! 無理ゲーだから!  俺はヤツを視界から消すために家方面に駆け出した。  あいつらを「かわいい」って言って撫でくり回す人の気が知れない。あいつらただのバケモンだろ。よだれ垂らして人の腕を噛んでそこらへんで糞して吠える。そのどこがかわいいって言うんだ。  俺は後ろなど振り返らず一心不乱に走った。二年前まで高校の陸上部で活躍していた俺には、足に自信がある。誰かを撒くなんて朝飯前だ。とはいえ高校を卒業して大学に入ってからは陸上サークル等には参加せず、体力作りなどもしていないため筋力は衰えているだろう。それでも足は動く。身体に染みついている「走る」という行為を、犬からの逃走に使った。  自分のアパート前に着いたところで振り返る。よしよし。足音も聞こえないし、うまく撒けたようだ…… 「おお、兄ちゃん、足速いな! 久しぶりに全力疾走したわ」 「ぬおおおおおっ!」  犬は俺の足元にいた。小さすぎて視界に入っていなかったようだ。のけぞってバランスを崩し、俺は尻もちをついた。 「ギャッ!」  陸上で短距離走をやっていた俺は受け身を知らない。脳みそが揺れてクラクラした。 「おいおい、大丈夫かいな兄ちゃん。足速いくせに案外ドジだな」  耳元で犬の声がしてゾワゾワッと鳥肌が立つ。大声を出したかったが、息がうまく吸えず「ひぇっ」という情けない声しか出なかった。 「もしかして兄ちゃん……犬、苦手?」  察してくれたのか犬は数歩後ずさりしてくれた。俺は息が詰まりながらも犬を見ないようにして答える。 「……苦手っつーか、嫌い?」 「なんで?」 「……昔、今みたいにしつこく追い回されたんだよ。そんで噛まれた。それ以来、見るのも無理になった」  トラウマというものはそういうものだろう。毎日散歩する犬を見かけるのは苦痛だが、関わらなければいいだけなので克服しようとまでは思っていない。  喋る犬をゆっくり視界に入れようとして、でも反射的に顔は正反対の方向を向いた。 「でも兄ちゃんは、オイラの声が聞こえる」 「……信じたくないけど、そうみたいだな」 「初めてなんだ、オイラの声が人間に届いたの。みんな聞こえるフリをして結局聞こえてなかった。なぁ、この運命に従ってみないか?」 「……はぁ?」  なに言ってんのこの犬。見るのも嫌だったが、俺はとうとう犬の方に顔を向けた。彼は舌を出して体温調節をしながら俺を見ている。犬の目が真剣である、という表現が正しいのかは分からないが、人間のような目力を感じた。
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