黄泉傀儡(よみくぐつ)

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 雲一つ無い夜。満月の明かりを受けた天津川(あまつがわ)が、海辺(うみべ)(くに)(やま)の国をくねる光で分かつ。  緩やかに流れる天津川のほとりには、叉手網(さであみ)瀬張網(せはりあみ)の漁で栄える村と、旅の者を迎える旅籠(はたご)があった。  旅籠には通年、この村で味わう季節の(さかな)を求めて旅の者がやってくる。  だがこの満月の夜、旅籠の客座敷(きゃくざしき)最奥(さいおう)にある一室を除いてすべて空であった。  それは、天津川を東側へ渡った先に広がる海辺の国に、不吉な噂が流れていたからである。  死者が歩き、襲ってくると。  旅籠の主人は噂の気味悪さに竦み上がり、今宵の営みを最後に一時(いっとき)のあいだ店を畳み、山の国へ流れて様子を窺うつもりでいた。  そこへ運良くと言うべきか、悪くと言うべきか、一人の男が最奥の一室を指定し宿を取った次第である。  美男と呼ぶにふさわしく目鼻立ちの整った男は、豊かに伸ばした黒髪を白糸の元結(もっとい)でさばき、萌黄(もえぎ)の袴を穿()いて(すそ)を金の小はぜで留めている。腰に差した立派な刀もあり、まさに名家の出の侍といった様相であった。 「女はいりませぬか」  旅籠の主人が敷居の外で言ったのは、男の派手な容儀(ようぎ)を見て気を利かせたからである。  店を畳めばしばらく稼ぎが絶え、食べるに事欠くことは目に見えている。主人としては、今宵迎えたこの最後の客から少しでも賃金をもらい受けたい含みがあった。  男は小はぜを外しつつ、 「もらおう。その前に酒を少々」  と、低くはっきりした声で言った。  実はこの男、名をハヤテといい、間諜(かんちょう)の間では名の知れた腕利きの伊賀乱波(いがらっぱ)である。(※乱波=忍者の意)  ハヤテが自然薯(じねんじょ)山菜(さんさい)、そして干し魚が盛られた皿を交互につつきながら徳利(とくり)を傾けているところで、一人の女が入ってきた。 「ご無礼仕(ぶれいつかまつ)ります」  女は川のせせらぎの如く清らかな声をしていた。年の頃は十五か十六といったところ。唐輪(からわ)に結わえた髪は艶やかで、細い帯を結んだ桜鼠色(さくらねずみいろ)小袖(こそで)の下から白い足と白い足袋が覗く。  ハヤテは女の身のこなしにどことなく違和感を抱いた。  動作の一つ一つが引き締められている。  彼ほどの乱波になると、相手の所作(しょさ)における重心の位置がおおよそわかるようになる。そんなハヤテの目には、女の身体にはいつどこから襲われようともすぐさま対処できるよう、常に丹田(たんでん)を意識した()()りのある動作が染みついているように見えた。  忍術を扱う上でも、高い身体能力を発揮する上でも、下腹部の丹田で気を練ることは最も重要視されることを知らぬ乱波はいない。  女の清らかで少々おっとりとした声は安心感を与えてくるが、放たれる微塵の隙もない気配は彼女の内に潜む別の顔を暗示しているかのようであった。  ハヤテの観察眼を悟ったか、女はほんの僅かな(あいだ)動きを緩め、おもむろに視線を合わせてきた。  ハヤテはここで確信する。  過酷な鍛錬の道を歩んできた者でしかわからない、乱波としての無垢で無情な眼光を女の瞳の中に見たのであった。  女は、数瞬の視線の交錯などまるで無かったかのように指を揃えてお辞儀をしたのち、ハヤテの座卓の横に正座すると目を伏せ、ただ黙すのみであった。 「――お前、名は?」 「咲耶(さくや)、と申します。三船咲耶(みふねさくや)」 「よい名じゃ。三船というと、生まれは海辺の国か?」  三船とは、海辺の国に多い苗字である。 「はい」 「ここで働いて長いのか?」 「……はい」 「……」 「…………」  ハヤテは咲耶と名乗った女が話しだすのを待ってみたが、咲耶はただ彼の座卓を見つめるのみ。 「ははは、これは無口じゃ」 「人疎(ひとうと)い身でございます故、なにとぞ、ご容赦いただきたく……」(※人疎い=人見知りの意)  咲耶は、はっとした様子でハヤテの酒を注ごうと手を伸ばすが、 「そう(かしこ)まるな、酒が(うも)うない。わしは十七を数えたばかりで、まだ名を上げておらぬ田舎侍に過ぎぬ。お互いに年が近いと見えるが、いくつじゃ?」  ハヤテは徳利を自分で傾けつつ、咲耶に(よわい)を尋ねた。 「十六でございます」 「読みが当たったわ。たった一年の差など、ほとんどあって無いようなもの。――どうじゃ? 親しさを覚えぬか?」 「親しさとは、とんでもございませぬ。わたしは下女(げじょ)の身でございますから」 「まぁ言うな。わしは年の近い女が好みなのじゃ」 「御戯(おたわむ)れを」  咲耶は上目でハヤテを見、頬を赤らめつつ彼の手から徳利をそっと引き取った。 「お前もやるとよい」  ハヤテは二つ用意させた杯の片方を差し出した。 「叱られてしまいまする……」  と、咲耶は困り眉をするが、 (違う。そうではあるまい?)  表向きの会話とは裏腹に、ハヤテは咲耶の懐を探り続ける。 「ところで、一つ問うてもよいか?」 「わたしに御答えできることであれば」  ハヤテの腕が咲耶の身体を引き寄せ、彼の指が彼女の背中を、何か探るかのように這う。  咲耶はあたかも気の弱い少女の如く肩をびくりと縮こまらせたが、足の崩し方、身体の向きといった一つ一つの細かな『構え』が積み重なり、眠れる戦士の気配となって滲んでいる。 「お前、人を斬ったな?」 「っ……」  咲耶の呼吸が小さく乱れた。 「――なにを仰います」 「とぼけるな」  ハヤテは打ち解けた微笑みを消し、咲耶の肩を強く掴む。 「おやめください」  咲耶が呻く。  しかしハヤテは自分が彼女の肩を強く掴んだとき、咲耶の顔に一瞬現れた『計らい』の瞬きを見逃さない。  肩を掴まれた咲耶が垣間見せたのは怯えではなく、『計算』であったのだ。  ハヤテは咲耶と視線を合わせながら、彼女の片手がゆっくりと腰の後ろに回り始めていることを悟る。 「――血の臭いじゃ。仄かだが、落とし切れておらぬ。素人ではわからぬであろうが、わしの鼻は嗅ぎ分ける」 「そ、それは――」  咲耶が顔を伏せた。(はた)から他の者が見れば、男に怒鳴りつけられた女が恐怖のあまり今にも泣きだしそうな状況と見て取るであろう。 「白状せい。お前は何者じゃ」  瞬間、咲耶から放たれる気が(へん)じた。 「いつから気付いておった?」  顔を上げた咲耶から、先ほどまでのか弱い気配が立ち消えていた。代わりに露わとなったのは、明確な殺意と歓喜の織り交ざった狂気の如き微笑(びしょう)であった。  常人ではまず反応できぬ素早さで以って繰り出された苦無(クナイ)が、ハヤテの喉仏に突き付けられる。 「お前が現れたときからじゃ」  ハヤテは答えながら、頭に被った黒髪の(かつら)を取り払い、元の黒銀(くろがね)の髪をさらした。 「やはり、お前が伊賀の乱波か!」  咲耶の問いに、ハヤテは首肯する。 「おう、そうじゃ」 「ならば早う申せばよかろう。わたしはここへ集うようにと(ふみ)を受けて来たのじゃ。お前などと回りくどい茶番に興じるためではない!」  と、頬を赤らめて言う咲耶は、どうやらハヤテの正体を見破りあぐねていたようである。 「この旅籠の女はどうした?」 「眠らせた。隣の部屋じゃ」 「斬ったわけではないのだな? ではその血の臭いは?」 「ここへ来る道中男に襲われ、斬った。その臭いじゃ」  咲耶は自分の腕を鼻に近づけるが、首を傾げる。 「……臭わぬぞ。お前の鼻は犬か」 「はは、よい誉め言葉じゃ。して、襲ってきた男というのは?」 「知らぬ。どこぞの(ぞく)であろう。身窄らしい身なりをしておったからな」 「なるほど……」  にやりと、ハヤテは口の端を吊り上げた。 「男を無傷で(たお)すとは大した奴」  この(げん)には、今このときより組むことになる咲耶の立場を立てる含みがある。 「お(はつ)であるな、甲賀(こうか)の咲耶」  ハヤテは言って立ち上がると、手を差し伸べた。 「お前の手など取るか。我ら甲賀が手を取るは、互いの技を認め合った相手のみじゃ」 「つれもなし。少々弄(ろう)じただけではないか」(※弄じる=からかうの意) 「此度は争うべくして集うたわけではない故に見逃してやるが、次は命をもらうぞ」 「こわい女じゃ。さきほどの慎ましさはどうした」  言いながら、ハヤテが酒を注いだ杯を差し出すと、咲耶はそれをむんずと掴む。 「やかましい。文を寄越したのはお前か? 早う要件を申せ。噂のことであろう?」 「そうしたいが、もう一人がまだじゃ」  と、ハヤテは咲耶と卓を挟んで反対側に座り直す。 「もう一人?」 「ここへは三人集う手筈でな」 「もう茶番には付き合わぬぞ」  言って、咲耶は杯を一気に煽った。 「――はは、よい飲みっぷりじゃ」  そこへ、どこからともなく男の笑い声が響いた。深く威厳のある声であった。 「え?」  咲耶が狼狽えたように室内を見回し、ハヤテは(もしや)と、座卓の裏を覗き込んだ。  そこには、いつ誰が仕掛けたのか、一本の牛刀が釘と糸とで固定されてあった。  次の瞬間、火薬が爆ぜたような音が轟き、座卓が煙幕に包まれ見えなくなった。 「わぁあ!」  煙幕の向こうで咲耶の悲鳴が上がる。  咄嗟に徳利を手に取っていたハヤテはため息を吐くと、酒の残りを飲み干した。  少し経って煙幕が晴れると、ハヤテと咲耶は座卓があった場所に一人の大柄な男を見出した。  その男は濃紺の忍び装束を纏い、背に雨よけの蓑代衣(みのしろころも)(てい)し、顔に赤色の鬼面(きめん)を被った姿で、見るからに只者ではない気配を漂わせている。 「武器渡(ぶきわた)りとはな――もそっと、ふつうに参ずることは叶わんのか? 金鬼(かなおに)」  ハヤテは呆れたようにその男の名を呼んだ。武器渡りとは、術を仕込んだ武器がある場所へ己の身を転移させる忍術を指す。 「金鬼じゃと?」  咲耶が驚愕の声を漏らした。 「然様(さよう)。わしは伊賀の金鬼と申す者。鬼面(おにづら)、鍛冶。呼び名はさまざま」  金鬼は言って、黒足袋と草履を履いた足を折り、どっかりと真ん中に座った。 「女。お前が甲賀の咲耶か?」 「そうじゃ。――伝説の鍛冶師……全然気づかなんだ」  咲耶はつぶやくように言って目を丸くしたまま突っ立ち、金鬼の身なりを下から上、上から下へとなめる。 「是非もなし。此度の寄合(よりあい)には、隠密に隠密を重ねる必要があったのじゃ。故に、卓の下にあらかじめ武器を設け、外から見張りがてら転移の機を伺っておった」 「も、もう脅かされとうない!」  ハヤテと金鬼が畳に座っているのに(なら)って、咲耶も膝を揃えてその場に()した。 「わしの肴が吹っ飛んだのはともかく、これで三人揃ったな」 ハヤテは仕切り直すと、本題を切り出した。 「今宵、二人にここまで集ってもらったのは文に(したた)めたとおり、例の噂についてじゃ」 「例の噂――海辺の国に流れておる、死者が襲い来る話じゃな?」  金鬼の確認に、ハヤテは首を縦に振る。 「うむ。わしは風魔(ふうま)仕業(しわざ)と見ておる」  風魔という言葉が出た途端、場の空気が張り詰めた。  風魔とは、伊賀や甲賀を始め様々な流派と対立状態にある乱波勢力の名である。 「まさか、黄泉傀儡(よみくぐつ)か。ハヤテ」 「まさに」 「な、なんじゃ? 黄泉傀儡とは」  視線を交わす金鬼とハヤテに、咲耶が問うた。 「甲賀には伝わっておらぬか。風魔の始祖だけが使ったとされる禁術(きんじゅつ)のことじゃ」  死んだ者の身体を人形の如く操る非道の忍術。それを黄泉傀儡と呼ぶ。  風魔の始祖はかつて、(くだん)の黄泉傀儡を用いて幾つもの国で悪行の限りを尽くしていた。  それを討ったのが、伊賀の始祖だと言われている。 「風魔の始祖は伊賀の始祖と戦い相打ちになったという話は聞いたことがある。まさか、その風魔の始祖が蘇ったとでも申すのか?」  咲耶の問いに、ハヤテは首を横に振る。 「わからぬ。始祖の術を受け継ぐ者が現れたか……そのあたりを見極めるために、我ら三人で防諜(ぼうちょう)を行う必要がある」  防諜とは、敵に悟られることなく、敵の情報を探ることを指す。  一人が表立って行動し、一人が陰でそれを支え、その二人を三人目が遠隔的に支える三段構えで無芸無名(むげいむめい)を成すのである。(※無芸無名=敵に見破られぬように自らの存在を隠し通す意)  この旅籠に伊賀忍者と甲賀忍者が集まったのは、万が一風魔が禁術を用いて悪事を働いていた場合に、力を合わせてこれを叩くためである。  ハヤテは続ける。 「明日、三人で海辺の国に潜入し、連携して情報を集めるのじゃ」 「なるほど。事の次第によっては乱波同士の戦いになることを見越して、同盟を結ぼうというわけか」  と、咲耶は二人の伊賀乱波を交互に見遣る。 「甲賀への見返りはなんじゃ? まさか無いとは申すまいな?」 「ない」  と、ハヤテ。 「なっ!」  思わず目を見開いた咲耶だが、僅かな間を空けてその頬を可愛らしく膨らませた。 「……団子でも買うてやろうか?」 「んんっ!」  頬を膨らませたまま、咲耶はぷりぷりと首を振る。  ハヤテは小さく笑う。 「はは、弄じ甲斐のある女じゃ。――この刀をお前にやる」  言って、ハヤテは腰に差した刀を取り、その場で刃を中ほどまで抜いて見せた。 「なぜ、お前の刀を?」  金鬼が問うた。 「わしの評定(ひょうじょう)じゃ、金鬼。討ち死にと決めた」※評定=ある尺度によって意思決定すること  ハヤテは刃に映る己の黄色い瞳を見つめながら話す。 「お主ら二人を呼んだのは言うまでもなく、此度の仕事がわし一人の手に余るからじゃ。事の裏に強大な敵が潜む予感がしておるのよ。その敵と刃を交えることになれば、恐らくただでは済むまい」 「お、お前が犠牲になると申すのか?」  咲耶が狼狽えた様子で言い、ハヤテは刃を見たまま頷く。 「必要とあらば。……いや、十中八九そうなろう。勘が告げおるわ。それにわしはこのまま、ただ老いて弱り果てた先で死にとうないのじゃ」 「……」  金鬼は物言わず腕を組む。  この時代、人々の寿命は三十代が平均であり、早い者では十代でその生涯を閉じてしまう。故に、ハヤテのような若者でも、己の最期を意識してしまうのは止むを得ぬことであった。 「このままでは、わしはそれこそ傀儡(くぐつ)のように己がもぬけの殻になっていく気がしてならぬ。そうなる前に潔く討ち死にすれば、ただ傀儡同然に生きるより、いくらか先祖に向ける顔を保てようというもの」  ハヤテは一人、頷く。 「故に咲耶、わしが死んだのち、この刀を取るがよい」 「考え直せ、ハヤテ」  ハヤテの言に、金鬼が割って入った。 「今の世は戦乱でなく、平和そのものじゃ。お前は乱波が不要になりつつあるのを悟り、己の存在意義に疑問を抱いておるのであろう?」 「そうじゃ。生まれて今まで、腕利きの乱波となるべく鍛錬してきた。それが無駄だったとあれば誰とて虚しかろう。ならばいっそ、人のために戦い果ててみせるのが乱波の誉というもの」 「なにもこの仕事で死ぬことはなかろう。此度のように、悪事を働く輩はその規模の大小あれど沸き続ける。お前の死にもっとふさわしい場所が見つからぬとも限らぬではないか」  鬼面を被る金鬼の表情はわからない。だが彼の声には怒りや失望といった色はなく、己よりも年若いハヤテをまるで諭すかのような響きであった。 「あはは! 黙って聞いておれば、男はつくづく!」  咲耶が吹き出した。 「戦って死ぬことだけが(ほまれ)か? わたしはそうは思わぬ。生きてさえおれば、やがて何某(なにがし)か別の誉が見つかるやもしれぬではないか。なぜそれがわからぬのじゃ?」 「別の、誉……」  ハヤテは己が抜いた刃から目を離し、咲耶を見た。 「そうじゃ。誓ってもよい。死に方にこだわりさえしなければ、いずれ何かが見つかるはず」  彼女の言葉を聞いたハヤテは思索するかの如く視線を伏せた。  咲耶は小さく笑む。 「――死人の刀など欲しゅうない。その代わり、生き抜いてみせろ。それを此度の見返りとしてやろう」 「その腕、この仕事で振るって終わるには惜しいぞ」  金鬼がハヤテの肩にその大きな手を置いた。 「……済まぬ、二人とも。わしは考えを誤っておった」  と、ハヤテが考えを改めたときだった。  突如として三人がいる部屋の天井が爆ぜ、木材の破片と粉塵とで視界が阻害された。  ハヤテは即座に呼吸を整え、口の中で唱えた。 「――下天微速(げてんびそく)!」  次の瞬間、ハヤテを除くすべてのものが停止したかに見えた。  いや、停止したのではなく、厳密にはゆっくりと動いている状態である。  ハヤテは素早く目を凝らし、粉塵の向こうに立つ人影を確認。 「っ!」  その人影の正体にハヤテは僅かに怯んだが、すぐさま持ち直して己が刀に手を掛け、居合いを繰り出した。  人影の正体は(むくろ)であった。数は三つ。そのいずれも手に小刀を持ち、今にも金鬼や咲耶に斬りかかろうとしていた。  ハヤテの刃が一体の骸の首を捉え、根元から断った。  そして立ちどころに残る二体の骸も切り伏せる。  すると、まるで嘘であったかの如く、他のものの動きが元通りに速くなった。  がらがらと音を立て、三体の骸が倒ればらけた。 「――え?」 「こ、これは!」  何が起きたのか理解が及ばぬ様子の咲耶の隣で、金鬼が立ち上がる。  下天微速の術。術の発動者以外のものの動きを遅くする、ハヤテの奥義である。 「どうやら、防諜の手間が省けたらしい。敵の方から参りおったわ」  ハヤテは刀を構え、部屋の外を睨む。  満月が照らす旅籠を囲む薄闇に、無数の気配が集まっていた。 「風魔という見立て、間違(まちご)うていなかったようだな」  金鬼が言った。 「これ幸い。あとは術を操る者を見出して討てば終わる」 「今のは、ハヤテ、お前の術か」  好機を見出して薄く笑うハヤテに咲耶が問うた。 「おう。しかし今の術はそう連続して使えぬ。再度発動できるまでに一定の時を要するのじゃ」 「礼を言うぞハヤテ。二人とも掴まれぃ!」  金鬼がそう言って、ハヤテと咲耶の肩を抱く。  部屋のすぐ外に敵の気配が迫っている。 「金遁(きんとん)・武器渡り!」  金鬼が叫ぶと、三人の周囲が一瞬闇に包まれ、激しい風鳴りと浮遊感のあとで、硬い地面と三人の足とがぶつかった。 「くっ!」  足袋しか履かぬハヤテと咲耶は足に少しの痛みを覚えたが、大事には至っていない。  金鬼が得意とする転移の術の類で、三人は旅籠から離れた場所へ、空間を飛び越え転移したのだった。 「――念に念を重ね、こうして大太刀を地に突き立てておいたのじゃ」  言って、金鬼は己の愛刀を地から引き抜き、肩に担いだ。 「今の奴らの立ち回りからして、狙いはわしら三人。旅籠から離れれば、他の者に被害は及ぶまい」 「なるほど。さすがだな、金鬼」  と、旅籠の方から迫る気配を感じ取り、刀を構え直すハヤテの額に汗が光る。 「――だが、思っていた以上に数が多いぞ」 「なら、ここはわたしの出番じゃ!」  咲耶が立ち上がり、胸の前で刀印(とういん)を組み唱えた。 「口寄(くちよ)せ・黒狼(こくろう)!」  すると、彼女が向く先およそ一間(およそ一・八メートル)先に黒い毛に覆われた、馬ほどもある巨大な狼が現れた。  咲耶の使役する使い魔である。彼女はその狼の背に軽やかに飛び乗るや、こう命じた。 「迫る敵を探し出し、骸であれば嚙み砕け!」  狼は満月へ向けた咆哮と共に地を蹴り、咲耶を伴い薄闇へ飛び込んでいった。 「背中は預けたぞ!」 「相分(あいわ)かった!」  ハヤテは金鬼と背中合わせに立ち、別の方向から襲い来た敵を迎え撃つ。  次から次へと現れる無数の骸は一体どこからやってくるのか皆目見当がつかなかったが、恐らくは無念にも人知れず野垂れ死んだか、討ち死にした者どもであるように見受けられた。  骨の所々に、武者と思しき服飾の破片が見受けられた故である。  ハヤテの刀と金鬼の大太刀が幾度となく煌めき、数多の骸を立て続けに切り捨てる中、骸の群れを蹴散らす狼に跨った咲耶が戻ってきた。 「北側の敵は一掃したぞ。二十は倒した! そちらは?」 「見ての通り、きりがない」  咲耶に金鬼が答える。  ハヤテは懐から黒い玉を取り出し、 「火遁を使う。その際に周囲を把握しろ」  そう言って黒い玉を宙高く放り上げた。  瞬間、巨大な火の玉が中空に灯り、しばしの間、煌々(こうこう)とあたりの茂みを照らしだす。 「これはいかん。囲まれておるな」 「ぜんぶで何体おるやら」  金鬼と咲耶が視線を走らせ言った。 「わかった」  ハヤテは丹田に意識を集中。再び奥義を発動させる。 「下天微速(げてんびそく)!」  世の動きが遅くなる。ハヤテの刃がここぞとばかりに乱れ咲き、凄まじい早さで骸どもを切倒していく。  最後の一体を倒したところで術が解け、周囲の動きがもとに戻った。 「まさか!」  ここで咲耶が驚愕の声を上げた。  彼女が見つめるは一間も離れぬ場所に立つ一人の男。  擦り切れて原型を留めぬ、ずたぼろの衣服を纏った姿は賊そのもの。今にも倒れそうなほどにやせ細った手足は歪み、身体をまっすぐに支えていない。 「どうした?」 「あやつは、わたしが斬った男じゃ! なぜここに⁉」  金鬼に聞かれ、咲耶は賊の身なりをした男から視線を外さず答えた。 「奴も骸のように操られておるのか、あるいは――」  真相を確かめるべく、ハヤテが男へと疾駆。  短く息を吐き、合わせて刀を振る。が、肉と骨を断つ感触はない。寸止めである。 「なにやつ! これらの骸は貴様の仕業か!」  男の目の前に立ち塞がったハヤテは、その顔を見てぞっとした。  赤茶け皺にまみれた肌は一部がただれ、その目は焦点が定まっておらず、まるで生気を感じない。  血の臭いがした。次いでその男の呻き声が聞こえ、定まっていなかった焦点がハヤテに固定される。  そして、それは起こった。  ハヤテが見つめる先で、男は唐突に四つん這いになったかと思うと、その背から無数の骨を飛び出させ、変化(へんげ)を始めたのだ。 「下がれ!」  ハヤテは振り返り、二人に叫ぶ。それが仇となった。  男の体内から無数に飛び出した骨の一つが凄まじい膂力(りょりょく)で以ってハヤテを殴打したのだ。 「ぐっ!」  腹部を打たれたハヤテは軽々と吹き飛ばされ、金鬼や咲耶のいる方角と反対方向に落下。  今や男は巨大蜘蛛のような姿へと変貌していた。体内の骨と骨とが合わさって一本の足となり、それらが計八本、胴部から外側へ飛び出す形で伸びている。 (不覚!)  ハヤテが歯を食い縛りつつ身を起こすと同時、蜘蛛男が襲い掛かってきた。 「させるか!」  ハヤテの眼前に、金鬼が放った大太刀が突き立ち、そこへ彼の巨体が武器渡りで現れた。  そして、今にもハヤテに突き刺さろうとしていた骨の足を、金鬼が代わりに受け止めた。  鋭利な形状を成した骨の足は容易く金鬼の忍び装束を突き裂き、彼の皮と肉へと食い込んだ。 「金鬼!」  叫ぶ咲耶の駆る狼が駆け付け、蜘蛛男へ挑み掛かる。  敵は蜘蛛の糸こそ出さぬものの、その足の多さは厄介極まりない。  刀を片手に振るう咲耶と鋭い牙を持つ狼をしても、蜘蛛男の足による攻撃から伊賀の二人を庇うのがやっとである。  ハヤテの瞳が、薄闇の中で黄色く煌めいた。 「わしの仲間は取らせん!」  刹那、ハヤテの身体がその場から掻き消え、無数の斬撃と風切りの音が(ほとばし)った。  蜘蛛男がその動きをぴたりと止め、静寂が流れる。  見れば、蜘蛛男の背後にハヤテが立っていた。  彼は振り抜いた刀の(けが)れを物言わず肘の内側で拭い、鞘へと納める。小気味良い金属音が響いた瞬間、静止していた蜘蛛男の巨体が無数に分裂。崩壊した。 「……片付いたな。天晴(あっぱ)れじゃ、ハヤテ」  金鬼は言って、がくりと膝をついた。 「金鬼! しっかり」  口寄せを解かれた狼が消え去り、地に降り立った咲耶が金鬼を支える。 「無事か、金鬼」 「わしは斬られ慣れておる。この程度では死なぬわ」  咲耶のあとから歩み寄って肩を貸すハヤテに、金鬼は力無く笑った。  旅籠に戻った三人は主人に事情を話し、手当をして朝を迎えた。  その間、窓辺で腰かけ、寝ずに番をしたハヤテの下に咲耶がやってきた。 「金鬼はどうじゃ?」 「今は豪快ないびきをかいて眠っておる。心配して損をした気分じゃ」  咲耶が答えると、ハヤテは彼女の目をまっすぐに見つめて小さく笑った。 「お前様の手当てが優れておったからじゃ。礼を言うぞ、咲耶」 「……っ」  急激に頬を赤く染めた咲耶はどこか居心地悪そうに視線を逸らすと、徐に片手を差し出した。 「や、夜襲は乗り切ったが、敵の黒幕はまだ明らかになっておらぬ。金鬼が休んでおる今、動けるのはわたしとお前だけじゃ」 「いかにも。して、その手はなんじゃ? わしの刀が欲しゅうなったか?」  途端、咲耶の頬が再び可愛らしく膨れた。 「んんっ!」  再度、むんずと手を差し出す咲耶は、ハヤテから目を逸らしたままこう言った。 「――て、手を貸してやると言っておるのだ。さっさと取れ」 「咲耶はやはり、(ろう)じ甲斐のある乱波じゃ」  ハヤテは楽し気に言って、仲間の手を取った。    終幕
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