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下からの目線。
「離婚しよう」
「え、ど、どうして」
「好きな人がいる」
「は? そんな、不倫ってこと」
「俺を責めるなよ」
「私に責任があるって言うの? ふざけないでよ」
「いや、別に責任とか」
「言いたいことがあるならはっきり言って」
「好きな人ができたのは、お前のことが好きじゃなくなったからだ」
「……は」
「はっきり言ったけど?」
「――」
刑事Sと刑事Yは、落とし物を拾うくらいの態度で死体を覗き込んだ。
「これはこれは、もうわかりやすく衝動的な殺人だな」
「ですね」
殺されたのは石神正次四十二歳。血の泉の中で息絶えている。
殺された場所は自宅。キッチンにあった料理用包丁で深々と一突き入っている。申し訳程度に包丁の取っ手からは指紋が拭かれて消されているが、他の調理道具からは奥さん、石神成美の指紋が検出されているのに、包丁にだけないというのは逆におかしい。
加えて、事件発覚以降、成美は行方不明。
「成美を見つけて終わりです」
「だなー、ご愁傷様ですっと」
家の中にはきつね色の柴犬が一匹いて、尻尾と頭を垂れて床を見ていた。
一日もあれば発見できると思い込んでいたSとYだが、成美は驚異の失踪力を見せつけ、一週間も姿を隠し通していた。ただの人間一人の居場所も掴めないとなれば、警察の威信に関わる。捜査の中心にいた二人は焦っていた。
そんな中、事件以降警察が一時的に預かっていた犬が、なにやら最近様子がおかしいらしいという話が流れてきた。二人はダメ元で犬との接触を試みることにした。
「なるほど確かに、様子が変だ」
犬は二人の刑事を見とめると、すぐに寄ってきて、しかし触れる距離まで近づくことなく、部屋の出口へと向かった。息は荒く、目は鋭く、心なしか栄養と睡眠が足りていないような不健康さがあった。
「仕方がないでしょう。目の前で今まで世話をしてくれていたはず二人が揉めて、お母さんがお父さんを殺したんですから」
犬は再び二人の刑事に近づき、そして出口に向かって走った。リードを持っている警察官は必死だ。
「精神が安定していないだけですかね」
Yがそういって立ち去ろうとするのを、Sが止めた。
「ちょっと待て」
「どうしたんですか?」
Sの頭の中で、閃きが駆け巡った。まるで点と点が結びついて線となり、路上に数式を書きなぐる物理学者のように。
「……どうして気づかなかったんだ! この犬、成美の場所を知っているんじゃないのか! そして、向かおうとしている、会いたいんだ、成美に!」
「でもどうして一度僕たちの元に――」
「おいお前、リードをよこせ、こいつに犯人までの道案内をさせるぞ!」
「待ってください!」
Sがリードを持った瞬間に、犬は走り出した。目指す場所は一つしかないといった明瞭な走りだ。
「ははは、当たりだ! この犬知ってるぞ!」
「転ばないでくださいね!」
二人は犬と共に走り、電車に乗り、タクシーに乗り、また走った。スーツ姿の二人が犬に引っ張られて公共交通機関に乗るのは珍しいのか、人々はにこやかに、時に驚愕の目つきで彼らを見つめた。
最初は犬の心を利用することに些かの抵抗があったYも、飼い主との再開だけを望んで一心不乱に走る犬の姿を見ているうちに、会わせてあげたい、それでいいじゃないかと気持ちが変化していった。
夜の帳がおり始めた頃、犬は歩みを止めた。深い森の中で、周りには誰もいない。
「随分と遠いところにきましたね」
「ここにいるのか? え? 犬さんよ」
Sがそう言い終わらない内に、犬がSの首に嚙みついた。一撃必殺、Sに反撃の余地はなかった。Yに助太刀の余地はなかった。
歯から血を滴らせた犬が、次の狙いをYに定める。
「こいつ、最初から殺す気で……!」
Yは拳銃を構えた。
しかし、手が震える。引き金が引けない。犬を撃つという行為の酷さが、Yの指をとどめているのだ。
「撃て自分、撃て自分、撃て、撃て、撃てーーー!」
夜が更けて、暗闇が森を包んでいた。
犬が倒れている。疲れているだけかもしれない。一日中走ったから。
草がかき分けられる音が聞こえ、女性が現れた。暗闇の中でもすぐに彼を見つけ、傍らに膝まづいて彼の体を抱きかかえた。
「私を守ってくれようとしたのね。あんなことしたのに、最後まで私を……」
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