銀木犀の響く夜

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 日付けが変わったばかりの休日に、上司にカレーをご馳走することになってしまった。 連休でよかった。 洗濯も掃除も済ませていた和室に、彼を座らせた。 「映画見ますか」 「ああ」 私はさっき見た映画を再生させた。 彼がぼんやり画面を見つめ始めると、私はキッチンに立った。 みじん切りの玉ねぎとスパイス、ニンニク、ショウガを炒める。爽やかな香りのクミンシードは欠かせない。 カレー粉のあとに潰したホールトマトも入れる。 ヨーグルトを加えてひと煮したらひき肉だ。 グリンピースは鮮やかな色を残したいから、煮込まないでさっと混ぜるだけにする。 真夜中の明るいキッチンに、こうばしい香りが重なっていく。換気のために小窓を開けると、さっきまで私たちの背中を照らしていた満月が見えた。 足りない材料を買いに出て新藤さんに会った。 呼ばれて振り向いた彼の頬は、雨も降ってないのに濡れていた。 よく考えれば、恋人でもない男性を自宅に招く時間帯じゃない。だけど、今にも闇に消えてしまいそうな彼を、放っておけなかった。 私は煮込み過程に入ったフライパンに蓋をして、和室を振り返った。 画面の白っぽい光が彼の横顔を照らしている。 ローテーブルに片頬杖をつく瞳は少し(かげ)って見えた。 グラスにほうじ茶を注いで持っていくと、彼が私を見上げた。 「あと少し煮込んだら出来ますよ」 「ん」 彼は小さく頷いてお茶を飲んだ。 泣いたあとは空っぽになり、静かな時間に埋もれることがある。 悲しみで言葉が心の底に沈んでしまっている。 普段から饒舌な人ではないが、喋ることが億劫になるくらいの疲労感なのだと思った。 炊飯器がきらきら星のメロディを奏で始めた。 食器棚からお皿を二枚取り出して、真っ白な湯気を立てるご飯をよそった。 フライパンの蓋を取ると、いつもよりスパイスの効いた香りに食欲が刺激された。トマトの赤みが残る飴色のキーマカレーに、緑のグリンピースがくっきりと映えている。 お皿を両手に、私は少し緊張しながら彼に声をかけた。 「お待たせしました」 目の前にカレーを置くと、彼が画面を指差した。 「コレか」 見るとテレビの中にも同じ料理が映っていた。 「そうです。コレ見て食べたくなりました」 「確かにな」 彼は少しだけ頬を緩めてスプーンを手に取った。両手で捧げるように水平に柄を持ち直すと、目を閉じて額に掲げた。 「いただきます」 「…はい、どうぞ」 その仕草に見惚(みと)れて、ひとつ遅れて返事した私をよそに、彼はひと口目を頬張った。何か言ってくれるかと期待してしまう自分を(なだ)めながら、私も座って食べ始めた。 静寂の中に食器の音だけが響く。 じりじりした気持ちに負けてカレーの味がわからなくなり、私は立ち上がってカーテンを開けた。 「カレーの匂いがこもってますね」 網戸にした窓から金木犀の甘い香りが流れ込む。 少し自分を落ち着かせるように何度か深呼吸した。 「銀だ」 背中で声がして振り向くと、彼も立って窓辺に近づいてきた。私は少し端に寄って彼のスペースを作った。 暗闇を覗き込む横顔は、さっきより頼もしく見えた。 「何ですか、銀って」 「銀木犀(ぎんもくせい)だよ。金木犀より少し甘い香りだ」 花の色が違うのは知っていたが香りは似通っている。 でも、隣の家には紛れもなく金木犀の木が植えられていたはずだ。 「ずっと金木犀だと思ってました」 「両方あるだろ。今は銀の方が濃く感じる」 「詳しいですね」 ここに住んで三年経つが、銀木犀は見かけた記憶がなかった。 「実家にあったからな。柊の葉をしてた」 そう言うと彼はまたテーブルについた。 「もう少し貰えるか」 「…はい」 お代わりするなら及第点だろう。 肩の力が抜けた私は、晴れやかな気持ちで彼からお皿を受け取った。 食事が済んで、私は彼に陶器の小鉢を差し出した。 「煙草、換気扇のとこでならいいですよ」 彼は少し驚いた表情を見せたが、すぐにかぶりを振った。 「この部屋の匂い、消したくないんだ」 少年に戻ったかのようにはにかむ彼に、私の心はぎゅっと掴まれてしまった。張りつめた糸でかろうじて形を留めているけれど、気を抜いたらふっと消えていなくなってしまいそうだ。 私の方が何だか心細くなる。 「…紅茶、()れますね」 洗い物を終えて戻ると、彼は畳の上で猫みたいに丸くなって眠っていた。静かな寝息を立てるたびに、シャツが(わず)かに上下する。 テーブルの上では、カップに残った紅茶がりんごの香りをもて余していた。 私は毛布で彼を覆った。 お腹を満たした後は睡魔がやって来る。 優しい香りに包まれて、ゆっくり傷が癒えればいい。 朝になったら銀木犀を探してみよう。 まだしばらく、涙の理由(わけ)は聞けそうにないから。
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