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避行
*
お母さんに友だちと遊んで来ると伝えると「夕方のチャイムが鳴ったらもうお家に向かいなさいね」と言われた。ぼくは「うん」と嘘を吐いて、玄関を出る。
リュックにはお母さんが作ってくれたおやつのパンが四個。ぼくの分と、志崎くんの分だ。
それから遠足のときだけ使う水筒をこっそり持ってきた。たしか三角公園に飲む水道があったから、なみなみと注ぐつもりだ。
志崎くんとは、三角公園で待ち合わせをしていた。
どきどきと高鳴って止まない胸をおさえながら、三角公園まで走る。ぼくの思惑に気付いたお母さんが、追いかけてくるのではないかと気が気でなかった。三角公園で待っている、と言った志崎くんがもういないかもしれないと云う不安もあいまって、もつれそうになる足を必死に回す。
今日ほど足が速くなりたいと思った日はなかった。
三角公園に着いた頃には外の寒さもわからないくらいで、着せられたコートを脱ぎながら志崎の姿を探す。
志崎くんはベンチに座っていた。
ブランコにはぼくたちよりも小さい子どもと、そのお父さんがいて、お父さんがブランコの鎖を握りながらゆっくりと子どもを揺らしていた。
ぼくも小さい頃、あんな風にお父さんやお母さんと遊んでもらった気がする。お父さんは最近仕事が忙しく、あまりお話もできていないから、今度遊んでほしいとねだってみたくなってしまった。
その気持ちが次の休みまでに恥ずかしくてなくなってしまわなければ、の話だ。
志崎くんの視線は、親子だけを捉えているようだった。そのままあの親子に混ざってしまうのではないだろうか。あの親子に志崎くんを取られては敵わない、と焦燥が体を動かした。
志崎くんと親子の間を遮る場所に立つ。
志崎くんは、最初から親子など見ていなかったような顔で、ぼくを見上げた。
「おかえり」
三角公園はぼくの家ではない。だけどその物言いに不思議な、決して嫌ではない、むず痒さを覚える。
「たっただいま」
不自然な早口でぼくは答えた。
「寒くないの」
「寒くないよ」
コートをじぃっと見ているから、寒いのかと思い差し出す。志崎くんが「おれも大丈夫」と笑う。また失敗してしまった。行き場のないコートを引っ込めて、次になんと話せばいいのか分からなくなる。
口籠るぼくに、志崎くんは「どこに連れて行ってくれるの?」と聞いてきた。
「あの、学校の裏にある山の、展望台さ」
そう伝えると、志崎くんはすっと立ち上がりランドセルを背負う。ぼくに、行こう、と目で語りながら公園を出た。
志崎くんがもうあの教室に入ってこないということは、とうとう最後までぼくしか知らないことだった。先生も、女子も、男子も、志崎くんに「また来週」と言っていたのだ。
「また来週」と返す志崎くんの言葉を誰も疑わない。さらりと嘘を吐く志崎くんに、きっとぼくだけが胸をこわばらせていた。
ぼくだけは、「またね」ではない、もっと素敵な言葉で送ってあげようと決めた。
まだどんな言葉にするか探し切れてはいないが、この道中で見つけるつもりだ。
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