避行

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 山の麓から中腹あたりまでは石の階段で、休憩所を通りすぎると階段のない坂道が始まる。坂道にをもっとたくさん登ると、ようやく展望台に着くのだ。  まだ幼い頃にお父さんに抱えられながら登ったことがある。  子どもだけでは絶対に登ってはいけないと、学校の先生も、お父さんも、お母さんも口を酸っぱくして言うから、ぼくは一度だって一人で登ったことがない。  だけどクラスメイトがこっそり子どもだけで登っていたことを、ぼくは知っていた。  それならば、ぼくも登ってみたかった。志崎くんと約束してからずっと、約束を破ることが恐ろしいことだと思っていたのだ。だけど今は隣に志崎くんがいる。  ぼくはもう、どこまででも駆けていけるような心地になっていた。  階段に足を乗せると、志崎くんに呼び止められる。まさか「登ってはいけないよ」と言うのではないかと思って、三段ほど進んでから立ち止まった。  おそるおそる振り返ると、志崎くんがランドセルを背中から降ろしている。 「上まで登るならこれは重たいよ」  そう言うと、教科書を取り出し茂みの中に突っ込んだ。使えなくなってしまう、と焦ったが、また取り出せばいいと言われる。あっという間に志崎くんのランドセルは空になった。 「コートが汚れるといけないから、これに入れよう」  立ち尽くすぼくからコートを取った志崎くんは、丸めてランドセルの中に押し込む。そしてたちまち、ぼくより三段上に登ってしまった。 「登ろう」  ぼくたちは静かに山を登った。    空はまだ明るいのに、木々が生い茂る山の中はどこか薄暗い。風が吹くと葉が擦れ合う音が耳を覆った。  階段のすぐ横は木が立ち並んでいて、土の茶色と紅葉の赤や茶色がまだらに混ざり合っていた。遠くから見る美しさはあまりなくて、葉が作り出した暗さに目を背けてしまう。得体の知れないなにかがこちらをのぞいているような不気味さが、ぼくの足を早めた。  志崎くんは淡々と階段を登っていく。ぼくと志崎くんの間は五段くらいだけど、志崎くんがときおり止まってぼくを振り返ってくれるからだ。 「ごめんよ、遅くて」  別に、とこぼした志崎くんは、その先を言わずに「あっ」と声をあげた。 「休憩できそうなところが見えたから、そこでひと休みしよう」  返事の声をあげようとしたが音は掠れてしまった。諦めて足を進める。前に来たときはお父さんが抱きかかえてくれていたから、登るのが大変だとは考えてもいなかった。  浅はかさに恥ずかしさを覚えていることが志崎くんに悟られぬように下を向いて進んだ。  休憩所には屋根があって、中に入ると山の一部から切り離された心地になった。  振り返る。住宅街は遠くの山に遮られるまで続いていて、空は青の下に少しだけ橙が見え始めていた。  階段を覆うほど伸びた木の枝が風に揺られざわめく。  店と家の区別が付かないほど細かくなった建物たち。きっとどこかにぼくの家があり、クラスメイトの家もあるのだろう。  息を切らして世界を見下ろすと、自分がなにか、大きな存在になった気分になった。 「そうだ、お腹が空くからパンを持ってきたんだ。ぼくのお母さんが作った。お母さんは料理が上手だからきっと美味しいよ」  ぼくが差し出したパンを、志崎くんは受け取ってはくれなかった。
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