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「それは君が食べないといけないよ。お母さんは満島のために作ったのだろう?」
志崎くんはパンから目を逸らした。
「違うんだよ。ぼくがお母さんに、友だちのぶんも作ってほしいって頼んだんだ」
「ほんとうに?」
「ほんとう!」
持ってきたパンを二個、志崎くんに押し付ける。志崎くんはまじまじとパンと見つめてから、ひと口ゆっくりと齧り付いた。
パンは給食にだって出たことあるのに、初めての物を食べる小動物――こう言っては本当に失礼だと思うけれど――のようだ。悪いものなんて入っていないのに、咀嚼にも時間をかけている。
ぼくは口を大きく開け、ひと口目を食べる。
ふんわりとバターの香りがした。もっちりとした食感で、お母さんのパンの味がする。
乾いた口内を水で潤しながら、橙が広がる空を見上げる。視界の両端からは黒い雲が迫ってきていた。
このままでは橙を黒が覆ってしまう。志崎くんに見せたいものが見せられないかもしれない。ぼくはパンを詰め込み立ち上がった。
まだひとつ目のパンを食べている志崎くんの腕を掴む。
「はやく行こう!」
志崎くんはパンをひとつぼくに返して、水筒から水を飲んだ。ごくり、とひと口分しか喉が動かなかったので、それで足りるのかと問う。志崎くんは大丈夫と行って、やはりぼくより早く坂を登り始めた。
空からの明かりが少なくなっていくにつれて、肌寒さを感じるようになる。滲んだ汗が冷たい風に撫でられて、ぼくは思わず身震いした。
志崎くんのランドセルに入っているコートを受け取ってしまおうか。しかし、それに頂上までの時間を割くのも憚られた。ぼくは手のひらで二の腕を擦り温めながら、ただ、坂を踏みしめ登っていく。
空を見上げるたびに橙が濃くなり、ぼくは焦った。
空を見上げるたびに黒が迫り、ぼくは怖くなった。
前を行く志崎くんは静かで、時折止まってぼくを待つ。踏みつけられ折れた靴と踵だけが、ぼくの視界に入った。
「着いたよ」
靴下が剥き出しの踵が止まる。
顔をあげると志崎くんがぼくに手を差し出していた。たまらずその手に掴まると、ぐう、と引き上げられる。疲れた足をもつれさせながら、半ば機械的にぼくの体は頂上にたどり着いた。
同時に、志崎くんの背中が倒れて、ぼくは志崎くんに覆い被さる。
志崎くんは橙に染まる空を見つめて「綺麗だね」と呟いた。
ぼくはそれでどころではなくて、ヘマをした恥ずかしさに今度は頬が熱くなっていく。
いそいそと志崎くんの上から退いた。羞恥心をごまかすために水を飲む。途中で志崎くんが「ぼくも飲んでいい?」と聞いてくれたのがやけに嬉しくて、喜んで水筒を差し出した。
展望台からはぼくたちが住む街が見える。赤い屋根に青い屋根、黒いアパートに白いアパート。たまに車のライトがチカリと光った。こんなにも多くの人がこの街に住んでいるのに、ぼくはきっとその半分にも出会っていない。
ぼくはちっぽけで、この広い街にぼくみたいな人がいるかもしれないと思うと勇気が湧いたし、いないかもしれないと思うと寂しくなった。
山の影が街を途切れさせているところは、ぼくの知っている場所なのだろうか。普段この豆粒みたいな街の一部でしかないぼくには、分からなかった。
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