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戦士の休息
乾燥した北風が吹くと半島に冬の匂いが漂う。北部に横たわるスティナ山脈は峰を白くし、大陸との境を厳しく顕していた。
もうじき麓にも雪が降る。にもかかわらず今日は陽射しを暖かく感じるほどの好天で、だから宿営を抜け出して気晴らしに馬を走らせるのも、そのついでに例の村へ寄るのも、チチェク王子の身分を明かした自分に許される気まぐれだとベルカントは思った。
チチェク・ラビュタン連合軍によるアンブロワーズ侵攻は、災害級の魔物の出現により一時休戦となった。通常ならば要塞を築いて戦線を維持し、牽制を続けるが、同盟のラビュタンは撤退を表明。チチェク軍も後援のモンテガントへの合流を理由に、進路を引き返した。
チチェクが国土を取り戻すにはアンブロワーズを落とすのが条件だ。志半ば、まだ敗けたわけではないが、もう同じ手は通用しない。
同盟は解消していないものの、ラビュタンは偽火竜姫の件が片付いたらセルジャン攻めからは手を引くだろう。チチェク勢だけで攻め上るのは分が悪い。体勢を立て直すにも、王子であることを支持してもらうにも、一度モンテガントに足を運ぶ必要がある。
雪が降る前に移動を済ませるなら村へ立ち寄るのはとんだ道草だが、ベルカントが山脈沿いの進路を選択しても側近のセミフは反対しなかった。
ラビュタンはイヴェットをどうするか。十年も火竜姫に成りすまし、領主として振る舞っていた女を。
夫のリオネル個人は許しても、王政を取り戻した今は国としての体面がある。裁定は、大甘で見積もっても離縁は免れず、セルジャンに送り返されるのも必至だろう。
シェブルーに帰る前にせめて顔くらい合わせてやれとリオネルに勧めたら、彼は手勢だけ連れてチチェクの行軍についてきた。実はベルカントには帝国兵として身分を偽っていた時代に原因を作った負い目があるのだが、あとはラビュタン側で決めることだ。口出しはできない。
ではなぜ村に向かう? ベルカントは自問する。村にはもう用はない。ただ掻き立てられるままに馬を駆る。背負わされた重責を束の間忘れるためだけに。
村へ着くとベルカントに気づいた村人は咄嗟に家に駆け戻ろうとした。
彼らにしてみれば、ベルカントはある日突然軍勢を率いて村を占拠した賊だ。チチェクの王子だということも聞き及んでいるだろう。関わり合いになりたくないのは当然だ。
「一人だ、馬を頼んでいいか」
ベルカントは驚きのあまりに引っ込みそこねた男に声をかけた。男は恐縮しながらも手綱と駄賃を受け取った。
目指すのは村長宅だ。出陣前の記憶で、茶の支度をしている頃合いなのはわかっている。
炊事場、開け放たれた扉からは、遠目にも人影を認めることができた。それが誰かを、ベルカントは知っていた。イヴェットの侍女、サリーナだ。
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