泣きそうな男

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泣きそうな男

 振り返ると村娘が立っていた。隙間風が胸に吹いて、ベルカントは虚しい期待をしていた自分に気づき、苦笑した。  村娘の名前は確か、タイスだったか。ぱっと目を引く器量が、伝令に寄越していた若い兵士たちの話題に上がっていた。 「セミフ様に頼まれて、お部屋を用意しました。どうぞ、こちらへ」  娘は視線を合わせたまま歩きかける。 「いや……宿営に戻る」  ベルカントが断ると、タイスはあからさまに困った顔をした。 「お代は村長が預かっています。そのまま帰られたら、私が怒られちゃう! せめて村長に会っていってくれませんか?」  村長宅にはリオネルがいる。イヴェットとの再会に水を差すわけにはいかない。 「……部屋はどっちだ」  渋々タイスの後についていくと、出陣前に居座っていた平屋に通された。  元は村長が使用人を寝泊まりさせるために設けたものだ。窓があり部屋の体を為してはいるが、小さな暖炉がある以外は物置とさして変わらない。  一抱えほどの大きさの丸テーブルと背もたれのない腰掛け、その奥に寝台。ベルカントの記憶と同じ位置に同じ家具があった。床は掃き清められ、窓は開け放されている。 「慌てて掃除したから、まだ少し埃っぽいかも。窓、しばらく開けておきますね」  タイスは暖炉の薪に火を点けた。 「夕食はここへ運ぶのでいいですか? いつもそうしていましたよね?」  水の入った鍋を火にかける。桶や手巾などの身繕いの道具を並べる手際には迷いがない。 「あんたは俺が怖くないのか」 「えっ?」  燭台の準備をする手元から顔を上げて、タイスは目を丸くした。 「いや、何でもない」  ベルカントは寝台に腰掛けた。洗いざらしの掛布から素朴な歓待が受け取れる。 「ちゃんとした宿屋があればいいんですけどね。うちの村、街道からだいぶ離れてるから商売にならなくて。大昔は山脈沿いに移動しながら暮らしてた遊牧民だったんですって」  手を動かしながら話しかけてくるタイスには少しも怖気付いた様子はない。生返事を返しているうちに暖炉の火が安定してきた。 「火竜姫様だとか、王子様だとか。こんな田舎の小さな村じゃ、おとぎ話みたいに遠くて。そりゃ、兵士がぞろぞろやってきた時は恐ろしかったけど」  ひと通り入り用のものを整えると、タイスはベルカントに向き直った。 「そんな泣きそうな顔してる人、怖くなんてないわ。うちの母さんなら『王子様ってのは青い顔してて務まるもんなのかい?』って笑うわね、きっと」  水差しから一杯、木碗に水を注ぐ。 「お湯、取っておいてくださいね。お茶の支度してきますから」  そう言い置いて出て行った。  一人になったベルカントは、まず窓を閉めた。昼下がりの室内に薪の爆ぜる音が響く。防寒と護身の装備を解いても、まだ居座っている外気の中で所在ない。鍋が沸きすぎないうちに桶に湯を取り、浸した手巾で顔と手を拭う。  泣きそうな顔? 俺が? ──自問を即座に否定して床に腰を下ろした。  右手親指の指輪を外して翳せば、仄白い石の内側に青い輝きを見つけられる。王家の証……唯一、チチェク王家との繋がりを示す至宝だ。  王都陥落の報とともにこれを受け取った時、セミフが見たこともないくらい怖い顔をしていたのを思い出す。帰る場所を失った王子・ベルカントは九歳だった。  幼さゆえの単純さから火竜姫を恨むしかないベルカントは、同時に無力な自分を思い知った。当時はまだまともに剣を振うこともできなかったのだ。  泣き暮らすベルカントにセミフは鉄拳を喰らわせた。仇は火竜姫ではないと。たとえ復讐を果たしても、それで国土が戻るわけではない。まずは力をつけることだと教えられた。  以来、帝国兵ウゴとして武技を磨き、水面下では仲間を集めた。再びチチェク王子として名乗りをあげる日のために。  かくしてその時は来た、だが、あと少しのところで魔物に邪魔された。──いや、本当はベルカントもわかっている。助けられたのはチチェクのほうだ。あのまま戦いが長引いたら、数で圧倒するアンブロワーズが勝っただろう。  指輪の向こう側に暖炉の火を覗いて、ベルカントはため息をついた。モンテガントへ着いたら早々に婚約者を決めることになる。チチェクの悲願を成就するための戦いは、始まったばかりだ。  ベルカントは暫く指輪を眺めていたが、指には戻さず懐に収めた。  今はただの旅人でいよう。そう思えば、もてなしにも素直に感謝できる。いつのまにか室内は暖まり、渇いた喉に木碗の水がありがたかった。  腰掛けで一息ついているところに扉がノックされた。タイスかと思って扉を開けたベルカントの前に、サリーナが立っていた。
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