屋根のない家

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 12時00分、私はゆっくりとその懐かしい家に向かっていた。  正午の穏やかな光りが小石の道に反映され、一歩踏みしめるごとにジャリっと音を立て弾ける。まるで過去を越えて行くような不思議な感覚だった。  実家の玄関に着くと、相変わらずドアは開け放たれ、母の白い靴がきちんとこちらを向いていた。 「おかえり、明世(あきよ)」  顔を上げると、母が困ったような顔で立っている。言葉は出ない。こんな時はなんて言えばいいのかわからない。 「ただいま……お母さん」  ようやく絞り出した言葉は震えるような小さな声なのに、玄関から奥の間に駆け抜けて行った。  38年ぶりの母娘の再会は、寒波がくる前の穏やかな冬の日の午後だった。  「さ、座ってコーヒーでも飲もうか。久しぶりに淹れてもらおうかな?」  微笑む母の顔は別れた時のままで、いまでも若々しい。眩しくて、少しそっぽを向く。  母に会えたら、話したい事が山ほどあった。なにせ38年分だ、自分だって忘れてしまった出来事さえあるだろう。  あの頃と変らない勝手知ったる実家のキッチンで、丁寧にコーヒーを淹れる。  私はもう、コーヒーだって美味しく淹れる事ができるんだよ? 「どうぞ」  母は目を細めながら、一口二口とコーヒーを飲んだ。  カップを包む母の細い指に、胸が締め付けられる。 ──お母さんの指ってきれいね?爪もカタチが良くて羨ましいな。  中学の卒業式、隣に座る母と小声で交わした会話が鮮やかに甦った。
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