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彼が喫煙を始めたのは十六歳の時だった。動機は父が吸っていたから自分も吸ってみたいという、ただの好奇心である。高校の先輩から煙草をもらい、最初はいきなり肺まで煙を入れるものだから咳き込んでしまったのも良い思い出だ。
今でこそ喫煙は二十歳からと厳しく言われるようになっているが、彼が小学生の頃は父親に言われて煙草屋にお使いに行くのが当たり前だったし、何なら喫煙そのものが大人の嗜みとされていたので、彼が就職した職場では七割程は喫煙者だった。
(俺の親父の現役時代は仕事するデスクでも吸えてたって言うもんな……煙がそこらここらに漂うのが当たり前って聞いて流石に俺もビビった)
流石に彼が若手の時には喫煙は体に悪いという風潮が出始めたために、仕事場で喫煙はもってのほかという扱いになっていた。なので社内に設けられた喫煙所で吸っていたが、喫煙所は情報交換をしたり親交を深めたりと、交流の場として機能していたために、禁煙する者はいないに等しかったのだ。彼もその一人で、多い時は一日に三箱消費していた程のヘビースモーカーであった。
「なのに俺が禁煙したから、周りからびっくりされてたな」
彼が禁煙した理由は、後の妻である明美が喘息体質だと発覚したからだった。明美と付き合い始めた当初は相も変わらず煙と仲良しだったが、彼の煙草の煙で酷く咳き込んだり、ゼエゼエと息をしているのを見てしまい、彼女を苦しませないためにぱったりと禁煙したのである。
最初は喫煙できないことにイライラとしたり、口が寂しくて飴やガムのお世話になったことも多々あったし、明美にキスを何度も迫ったこともある。しかし我慢ができずに明美に隠れて喫煙したこともあった。明美には当然バレたものの、彼女は彼を責めようとはせず、寂しく微笑むだけだった。
彼女のその顔を見ると胸が締め付けられるので、彼はまたしても喫煙したい欲と格闘していたが、同僚や先輩、そして上司が喫煙できていて、自分だけ禁煙しているという状況は苦痛以外の何物でも無かった。煙草の匂いを嗅ぐだけで吸いたい欲求が膨らんでいくからである。当時は現在のように禁煙外来が広く知られておらず、彼は自分の力だけで禁煙しないといけないというプレッシャーも強かったこともあり、それに耐えられなくて煙草に手を伸ばしたこともある。
(俺が我慢できなかったもんだから……明美にジッポライターと灰皿と煙草を隠してくれって頼んだんだったな……まさか押入れにあるとは思わなかったが。もっと見つからん所に入れるもんだろ、明美)
彼は粘着でベタベタになった箱に視線を落としてふっと笑みを浮かべる。当時の明美が必死になって、ガムテープで箱をぐるぐる巻きにしている様子がありありと想像できたからだ。彼女は手先が不器用な訳ではないのだが、とにかく開けられないようにと考えた結果、ガムテープを何重にも巻くことにしたのだろう。
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