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「明美、俺はもう吸わないぞ。今日のは昔を懐かしんでいただけだ。流石に吸えたもんじゃないしな。別に煙草なんて肺に入れなくても俺は生きていける……ありがとうな、明美。俺に健康と、元気な娘と息子と贈ってくれて……みんなでかけがえのない時間を過ごせたのはお前のお陰だ」
彼はおもむろに立ち上がって窓を開けると、晩秋だというのに未だに温さの残る風が紫煙を乱し、千々に部屋を彷徨い、ふっと部屋に消えていく。夕闇色は彼の横顔にも平等に降り注ぎ、そこはかとない憂愁がしばし部屋を漂う。彼の懐かしむその顔は酷くこの光景に似つかわしいのだ。
「お前らもありがとうな……俺の青春を支えてくれて」
そう言って彼は煙草のパッケージとライターを掴み庭に移動し、金属のバケツに水を入れ、玉砂利の敷かれた庭に降り立つ。石が擦れる音がしたと思うとわずかに足元が沈んだ。
「来世で会おうぜ……と言いたいがひょっとしたら無理かもな。でも、ありがとよ」
彼は煙草のパッケージを玉砂利の上に横たわらせて、ライターの火を近づける。箱の端が黒く変色したと思ったら橙色が僅かに顔を覗かせ、じわじわと橙色の輪がたなびく白と炭の黒を連れて広がっていく。炭の黒は徐々にその黒さを失い、灰となってほろほろと崩れていった。そして煙草本体にも橙色が移ったのか、懐かしいあの咽るような香りが辺りに漂い、彼は再び咳き込んだ。
「他にも軽い味の煙草もあるってのに、結局お前に行き着いてたな……お前じゃないと吸ってる感じがしなかったんだ」
寂寥をその横顔に浮かべ、口元を僅かに歪める。天へ登る揺らめく白を見て思い出すのは、喫煙していた頃ではなくて、明美や子供達と過ごしていた頃だ。子供達を迎える前はしょっちゅう明美と山に出かけていたものである。どちらかと言うとインドア派だった彼女は、最初こそ山に行くのを渋っていたものの、彼は明美がふさぎ込んでいた時に限って外に連れ出していた。どんなに彼女がぶすくれていても、彼が山に連れ回して、自分が撮った写真を見せたり、そこに住んでる生き物を説明したり、比較的緩やかなコースを彼女の手を引いて回っていると、いつの間にか明美は眩しいばかりの笑顔を向けてくれたのだ。
子供達が産まれてからは、遊園地や水族館に出かける機会が増えて、山に行く機会はめっきり無くなったが、それでも彼ははしゃぐ子供達や隣で笑っている明美を見ているだけで幸せだった。それを見たいがために夏休みや冬休みは積極的に有給休暇を取得し、子供達や明美の好きな場所に連れ回していたが、父親らしいことはできていたのかが未だに自信が無い。
(随分明美に絞られたもんなあ……家事については)
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