9 メビウス【最終章】

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 中学二年の時、中條佐奈枝へ執拗ないじめを行っていたのは、クラスの中心でもあった野瀬朱音と藤繁凛だった。  無視や悪口といった所から始まった二人の中條佐奈枝に対するいじめは、次第に暴力や恐喝まがいの事態にまでエスカレートしていった。周りのクラスメイトたちも初めは軽い気持ちでいじめに同調していたが、そのうち二人に逆らえば自分も標的にされるのではないかという疑心暗鬼に捕らわれていった。  中條佐奈枝は黙ってそれに耐え続けていた。見かねた私はその当時の担任や真宙にも相談したが、事態は一向に解決しなかった。むしろ野瀬朱音と藤繁凛のいじめは更に激しくなり、中條佐奈枝を(かば)おうとした私もクラスメイト全員から無視されるようになっていた。  そして二年生の終わりが近付いたあの日……、  あれも、冷たい雨の降り続く放課後だった。  中條佐奈枝は、その場に居合わせた私の目の前で電車に飛び込んで自殺した。  今でも目蓋から焼き付いて離れないのは、赤い傘をさした彼女の最後の姿だった。 「私……弱いから。自分でもどうしようもないほど」  赤く点滅する警報機が鳴り続ける中、踏切の遮断機を乗り越えた彼女は私の方を振り返って言った。 「違う。佐奈枝は弱くなんかない。だからずっと耐えてきたんじゃない。あんな連中なんて無視すれば良いんだから」 「結衣みたいに……私、強くなれない。みんなが私を見る目が、怖くて堪らないの。いつの間にか、クラスの人たちや家族が……私の知らない別の人に入れ替わってしまった。そしてみんな、私のことをあざ笑ってる。まるで水槽の中の魚を観察してるみたいに」  眼鏡の奥の瞳から溢れだした涙が、彼女の頬を止めどなく伝っていく。 「もう……引き返せない。私の世界は壊れてしまったの」 「そんなことない。私が……私がずっとあなたの傍に居るから」  私は踏切の手前から、彼女に向かって手を伸ばす。だがそんな私から離れるように後ずさると、彼女は小さく首を横に振る。 「結衣と友達になれたこと、私、本当に嬉しかったの。けど……あなたもわたしにとっては別人になってしまった。そう、偽物のソジーに」 「ソ……ジー?」 「最初に手を離したのは……結衣、あなた。結局あなたも安全な場所に逃げ込んで、心の奥底では私を笑ってた」 「違う、私はそんなつもりじゃ……」 「いいの。でもね、本当は私はずっと結衣みたいになりたかったの。もし別の人間になれるのなら、あなたみたいに」 「佐奈枝……」  降りしきる雨の斜線の向こうから、電車が猛スピードで近付いてくるのが見えた。  けたたましい警笛が辺りに鳴り響く中、彼女は線路の中に立ち入る。 「ありがとう……結衣。最後にあなたに会えて……良かった」 「佐奈枝っ!」  駆け寄った私は、遮断器を掴んで必死に手を伸ばす。  だが、その指先は……わずかに彼女に届かなかった。  振り返った彼女が目を細めて私に微笑みかけた瞬間――、  電車が目の前を通り過ぎ、弾け飛んだ赤い傘が空中に舞い上がる。  急ブレーキを掛けた電車の金切り音とともに、骨の砕ける鈍い音が響く。  電車の下に巻き込まれた彼女の体は引き千切れ、車輪が通り過ぎる度に真っ赤な血飛沫と肉片が辺りに飛び散っていく。 「い……いやあああああああっ!」  彼女の鮮血を浴びた私は、絶叫を上げてその場に崩れ落ちる。  急停車した電車からは、何かの焦げるような臭いと雨に混じって霧状になった血の臭いが漂っていた。  電車の下から流れ出す血溜まりに、降り続く雨が波紋を上げ続けていく。  真っ赤に染まる視界の向こう側に、雨に濡れた青色のハンカチが落ちていた。  それは……私が誕生日にプレゼントした、ラベンダーの香りのするハンカチだった。 「佐奈……枝」  私は座り込んだまま、茫然とそのハンカチを握り締める。  いつの間にか、私の周囲には大勢の人が集まっていた。  喧騒のようなノイズが耳の奥に響くだけで、彼らが何を言っているのか私には分からなかった。見上げると、彼らの顔は一様に真っ暗な影に覆われていて、まるで顔のない人間そっくりの何かに取り囲まれているような気がした。 「あなたたちは……いったい、誰?」  いくら訊ねても、誰も返事してはくれなかった。  ただ降りしきる雨の雫が、私とバラバラになってしまった佐奈枝の体に叩きつけていくだけだった。
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