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ミルクの入ったマグカップをテーブルに置いた母は、そのまま私の手にそっと自分の手を重ねる。
「私は……ずっと恐れてたの。結衣が変わってしまうんじゃないかって」
「私が?」
「そう。高校に入ってから、あなたは元気を取り戻したように見えた。でもそれは表面的にそう振る舞っているだけで、本当のあなたの心は、まだあの時間の中に閉じ込められている気がするの」
「……」
「怖かった。あなたの中には、まだあの出来事が残り続けている。そしてその心の奥に押し込めていた鬱屈が、いつかまったく違う形で現れるんじゃないかって。もしかするとその時に私の前に居るのは、これまでの結衣とは全く違う人間なんじゃないかって。ありえない話だとは分かっていても、どうしてもそんな妄想が頭の中に浮かんできてしまうの」
「私じゃない……別の誰か」
口ごもる私の体を、母は後ろから抱きしめる。
「もう……全てを忘れた方が良いのかもしれない。私も、あなたも。そうすれば私たちは、また昔みたいな関係に……」
その時、背後に立つ母の手が私の首に触れる。ほんの僅かだが……その手に力が込められた気がした。
「お母……さん?」
食器棚のガラスに、後ろから私の首に両手を掛けた母の姿が映る。
乱れた前髪に隠れた瞳には光がなく、口元は醜く歪んでいた。そしてその口の端からは、血に濡れた赤い牙が覗いていた。
「そん……な」
間違いなかった。
そこに居たのは、いつも見慣れた母親ではなく……母の姿をしたソジーだった。
「ひ、いっ!」
その手を振り払って、私は椅子から飛び退く。払い除けた拍子にテーブルから落ちたマグカップが、音を立てて割れる。
「う……」
壁に背を付けて振り返ると、床に力なく座り込んでいる母親の姿が見えた。
湯気を立てたミルクが床に白い染みを広げていく中、母はその場にうずくまったまま両手で顔を覆う。
「ごめんなさい……結衣。私はただ……何も変わらずに、ずっと……ずっとあなたに私の娘で居てほしいだけなの。あの頃と、昔と同じように……」
そう言って泣き続ける母の顔は、普段と何も変わらなかった。
「わ、私は……」
テーブルの上のアルバムを引ったくるように胸に抱えて、私は慌ててリビングを出た。
涙を流し続ける母に、何も声を掛けることが出来なかった。もしかすると私は、自分が知らないうちにずっとこうして母を苦しめ、悲しませてきたのではないのだろうか。
母が私のことを疎ましく思っていたのではない。逆だ。両親を拒み続けてきたのは……もしかすると私の方だったのではないのか。
「そ、んな……」
痛みだした頭を押さえながら、自分の部屋へ向かう階段をふらふらと上がっていく。
さっき私の目に一瞬だけ映った、赤い牙をした女の姿はいったい何者だったのだろうか。
母がソジーであるはずがない。現にそう見えたのは一瞬だけだ。
だとしたら、あれは……私が見た白昼夢だとでもいうのか。
「幻……」
私はいったい、どうしてしまったのだろう。
身近な人間を化け物だと思い込み、その幻覚に惑わされる。まるで憑き物にでもあったかのように。
母は言っていた。私が別の人間になることを恐れていると。
「じゃあ……私は」
足元が揺らぐような激しい目眩がして、階段の壁に寄り掛かる。
もしかすると母の言うように違う人間になってしまったのは……、私の方なのだろうか?
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