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「諦めなくてよかった」
高梨の腕に頭を乗せた史弥が、目を閉じたまま呟いた。疲労でうとうとしていた高梨は、史弥の髪に指を通しながらなんとなく頷いていた。
「警部補さんの前では、早紀と結婚してもいいような態度を取っていたけどさ、嫌に決まってるじゃないか。あんな女、触れたくもなかった」
話しているうちに感極まったのか、史弥の声はすこし震えている。高梨はもう一方の手で史弥の頬には触れた。
「それならそうと、俺にだけは言ってくれればよかったのに」
「敵を欺くにはまず味方からなんだよ」
史弥はにっと笑って高梨の手を撫でた。騙されたような気がしてきたが、真実を知ってしまったら隠し通せる自信はない。史弥が黙っていてくれて、むしろ良かったのだろう。
「じゃあ。婆さんに結婚しろと言われたときは、なんて答えたんだ?」
「もちろん。抵抗したよ。好きなひとが居るって」
適当に同意を匂わすような言葉で、喜代子を安心させているのかと思っていた。まさか、史弥がそこまで思い詰めていたとは。
「もちろん、罵倒されて終わった。相手が男だって言ったからね」
「女だったら、良かったのか?」
「余程じゃない限り構わないんじゃないかな。ばあちゃんとしては、御立派な加賀美家の跡取りが欲しいんだから、相手は早紀じゃなくても構わない。その意味では、早紀もかわいそうだな……僕みたいに頭のおかしくなった人間が、子供を持つべきじゃないと言ってみたけど、お前は本来賢いのだから賢い子供が生まれるはずだ、ってきかないんだ……もう、狂ってるよね」
史弥は喉の奥で笑った。
「あの日もね、朝っぱらからばあちゃんに結婚の話をされて、うんざりしていたんだ。通院日だからってはぐらかしてもしつこくて、僕もつい怒鳴っちゃったりしてさ……借金の話をしに来た雄治は、とばっちりだったね」
高梨は欠伸をした。
「あの晩雄治は、ばあちゃんとかなり言い争っていた。夕食のときは平静を装っていたみたいだけど、ばあちゃんと早紀がいなくなってから、ぶつくさ文句を言ってたよ。こんな家、残したって仕方がないってさ。僕もつい同意しちゃった。ふたりとも酒が入ってたから、まあその場のノリだよね。雄治は、ばあちゃんを殺すしかないなんて呟いていたけど、ナツミもいたし冗談だと思っていたんだけどね」
「え?」
高梨は思わず上体を起こした。腕から頭が滑り落ちて、史弥が不満げに唸った。
「そんなに驚かないでよ……雄治が殺したんでしょう?」
「……ああ」
汗が引いて寒さをおぼえ、高梨は手で体を擦った。史弥は布団にくるまって、猫のような眼差しで恋人を見つめて、話を続けた。
「雄治はばあちゃんとの話し合いが上手くいくつもりで、ナツミにビーフシチューをリクエストしたんじゃないかと思うんだ。ワインまで持ってきたんだからね。それがダメだったから、すっかりくだを巻いちゃってさ。僕にまで飲ませてくるから参ったよ。食べ過ぎと酒のせいで苦しくなって部屋で寝ていたら、雄治が飛び込んできて、ばあちゃんを殺してしまったって言うから驚いたよ……馬鹿なことをするよね」
引いたはずの汗がどっと流れるのを感じた。
「お前、雄治が殺したのを知ってたのか」
「まあね」
まるで天気予報を見て傘が必要なのをわかっていたかのように軽く答えて、ふたりしかいないのに史弥は声をひそめる。
「君だから話すんだよ。誰にも言わないでね」
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