4.歌

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4.歌

 あれから何年経ったろう。  私は今も公民館の裏手、八重桜の傍らにいる。  ますます薄汚れて利用者は少なくなったけれど、私の毎日は変わらない。  町を見下ろし、人を眺め、ただ佇む。  誰にも触れられず、話しかけられず。  少しずつ変わりゆく街並みをぽかんと開いた目玉でただ見つめて。  雨に打たれて、雪にうずもれて。ここにいる。  それだけ。  ただ太陽が昇って沈む、それだけの日々を見送るばかりの私の耳に届くのは、儚く鳴く風の音か、意味をなさずに通り過ぎていく人間の生活音か。  いずれにしても私の聞きたい音じゃない。  私はひとり、閉じていた。  瞳は開いたまま、でも心は海風になぶられ過ぎてさびついた海辺の家のトタン屋根みたいに、地面に崩れ落ちて終わるそのときを待ちわびてすらいた。  形ばかりの私の耳はもう自分から音を拾おうとはしない。  しない、はずだった。  なのに、そのとき、私の動かないはずの耳が動いた気がした。    私の耳を震わせたのは、声。楽し気な甲高い男の子の声だった。 「お父さんの歌、僕、すっごく好き!」  子どもの声を抱きしめるように、笑みを含んだ女性の柔らかい声が続いた。 「そうよね。お母さんもお父さんの歌、とっても好き」  そして響く、第三の声。 「嬉しいこと言ってくれるなあ」  彼だった。  ぽかんと開いた目をなおいっそう見開き、私は見たものを必死に記憶と照合する。  ギターをかき鳴らし、歌う彼。  私の隣で瞳を輝かせて夢を語った彼。  雨の中、頬に雫を垂らしながら、夢を捨てた、彼。  小さな男の子を肩車し、横にいる女性と暖かい眼差しを交し合う彼と、記憶の中の彼の顔が緩やかに重なった。  声など元から出ない。けれど私は完全に言葉を失い、彼の姿を目で追った。その私の前に、彼はゆっくりゆっくりと歩いてくると、あの日々のように私の傍らに立ち止まった。 「おお、懐かしい。まだいた」 「おうまさん?」  はしゃいだ声を男の子があげる。彼は笑いながら、そうだよ、と頷き、男の子を肩から下ろして私に座らせた。  きゃっきゃっとはしゃぐ男の子が転げ落ちないように男の子の背中を彼が支える。  その彼に妻らしき女性が訊ねた。 「ここで歌っていたの?」 「そう。いつもここで。こいつだけが観客」 「そっか」  女性はかすかに微笑む。今、私の傍らでつぼみを広げ始めている八重桜みたいな、つつましくも優しい笑顔だった。  その笑顔に似た、柔らかい掌が、私の頭にそうっと乗せられた。 「じゃあ。私たちよりファン歴長いね、あなたの」  ファン。  ああ、そうか。この人もそうなのか。  私は私の頭を撫でる彼女を見上げる。その彼女の横で彼がはにかんだように肩をすぼめた。 「そっか、ファン……。じゃあ、奈々の先輩か」  柔らかい風が、ふっと吹き寄せ、彼と彼女と、その子供を包む。温かいそれに私が目を細めたときだった。  ねえ、と彼女が言った。 「歌って。ここで」  彼がちょっと照れたように目を伏せる。その彼に向かって私も叫ぶ。    歌って。  歌って。   彼の歌が、聞きたかった。 「いいよ」  陽光の下で、彼が笑う。そうして彼は、男の子をよいしょ、と私から下ろすと、その手でそうっと私の頭を撫でた。  微笑む彼の目尻に、昔にはなかった笑いじわがうっすらと見える。  手も、ギターの弾きすぎで指先がこちこちだったはずなのに、今、私に触れる指はふわりと柔らかい。  あの雨の日、夢を諦めると決めてから、彼はどんな毎日を過ごしたのだろう。私は知らない。でも……細かな変化はあったとしても、その撫で方はやっぱり、彼だった。  彼が小さく息を吸い込む。  懐かしい、歌い始めるときの彼の仕種だった。  吸い込まれた空気が音階を伴って飛び出す。  声が蒼穹へと駆け上がっていく。  伸びがあって、朗らかで。  やっぱり少し、音程は狂っている。でも、彼の、彼だけの温もりを抱いた声はあのころのままだ。  温かい彼の温度に包まれながら私はゆらゆらと揺れる。  あのころ。あなたが尖っていたあのころ。夢を語っていたあのころ。  何万人もの人に歌を届けたい、とあなたは語っていた。  あのころのあなたも、とっても素敵だなあと思っていたけれど。  今、手の届く範囲の誰かのために歌うあなたはあのころよりももっと素敵だ。  少なくとも、あなたの歌声のファン第一号であるところの私は、そう思う。  歌い終わる彼に男の子と女性が拍手をする。  動けない体を揺らし、私も彼に拍手した。  歌っていてくれてありがとう、そう呟きながら。  春の陽気に霞む空の下、拍手はいつまでもいつまでも私の耳に残った。
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