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2.彼
そんなある日。
ちょっと変わった人間がやってきた。
それが彼。
名前は知らない。まあ、馬の形をしていても生き物ではない私に名乗るわけがないから、名前を知らなくて当然なんだけど。
彼は若い男の子だった。といっても学生という感じではなくて、大人になりたてのちょっとアンバランスな感じのする青年だった。
いつも大きなギターバックを抱えて見晴らし台の上にやってきては私の横に無造作に座り、ギターをかきならしながら歌を歌っていた。
彼の歌は……あんまりうまくなかった。
音痴と言っていいかもしれない。
けれど彼はとても気持ちよさそうに、のびやかに歌っていた。
私は彼の歌声が案外好きだった。
確かに音程はめちゃくちゃだったけど、彼の声は曇りがなくて、聞いていると目の前に垂れ下がった現実というカーテンがふわあっと開けられるみたいな不思議な解放感があったから。
ただここにいるしかできない私の世界まで広げてくれるみたいな気がしたから。
しかし、彼がちょっと変わっているな、と思ったのはその歌声のせいばかりではなかった。
「俺さ、いつか世界中の人間に俺の歌を聞かせられるアーティストになるんだ」
彼はなぜか、ただの白い馬の遊具である私に切々と夢を語った。
「世界中の誰もが、あ、この歌知ってる!って言うような歌をがんがん歌ってさ。でっかい家に住んで。でかい犬とか飼って」
わりと発想が即物的なんだな、と感じた。
「ちょー美人な奥さんと結婚してさ、子どもは三人、男女男で」
計画が細かいけど、さすがにそんなにうまくはいかないんじゃないかな。
「年取ってからも、ロックの神って呼ばれるようになってさ。髪とか金髪に染めて」
ロックの神ねえ。まあまあ尖った夢を見る人なんだな、と私は無言で拝聴する。
彼の夢はとりとめがなくて。現実感が乏しくて。ちょっと心配になるくらい地に足がついていなかったけれど、歌に対する思いは真剣なようだった。
真っ暗に沈んだ空の下、煌びやかな星空みたいな町の明かりを見下ろしながら歌う彼の横顔はいつもまっすぐで、私はいつしか思うようになっていた。
彼の夢が叶いますように、と。
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