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3.別れ
彼との二人きりのライブは、二年ほど続いた。
けれどある雨の日。晴れた日にしか顔を出さない彼が珍しく私のところへやってきた。
その日の彼はギターケースもてかてかした皮のジャケットも着ていなくて、スーツ姿だった。
彼は濡れそぼる私の傍に来ると、ここを訪れる人々がよくそうするように眼下に広がる街並みを見下ろした。
そうして眺めていながらも、なにも見ていないような空っぽな目が妙に気になった。
ぎらぎらしたいつもの彼の目と明らかに違っていたから。
なにがあったのだろう。気になって気になって仕方なかったけれど、私はその場でただいつも通り黙りつづけるしかできなかった。
どれくらいそうしていただろう。雨の中、ただ街並みを瞳に映していた彼がふいと私の方を見て、私の頭に骨ばった掌を当てた。
掌は、雨のせいか、とても、冷たかった。
「俺さ、就職することにした。音楽も、辞める」
驚いた。けれど私は動くことも話すこともできない。ただ耳を傾けるだけだ。
その私に彼は淡々と言葉を続けた。
「叶うまで何年でもやるつもりだった。でもわかっちゃったんだよ。俺には才能がないって。俺じゃあだめだって」
彼が唇をほんの少しだけ持ち上げる。笑顔のつもりのようだったけれど少しも楽しそうじゃなかった。
歌っているときの彼の顔とは全然違う、悲し過ぎる笑顔だった。
「ずうっと観客もお前だけ。でもそれでもよかったんだ。歌うのが楽しかったから。でももう今は苦しい。だから辞める。ごめんな。いつも聞いてくれていたのに」
そう言って彼は手にした傘をそうっと私の頭にかぶせる。そのまま背中を向け、見晴らし台から町へと下りる階段を下っていく彼の背中を、私は傘越しに必死に見つめていた。
出ない声をなんとか絞り出そうと躍起になりながら。
ねえ、聞いて。お願いだから私の声を聞いて。
私は、あなたの声が好きだった。
あなたの歌声は人を幸せにするから。
だって私がそうだったから。
ただただここにいるだけしかできないでいた私の心に、あなたの歌は彩りを与えてくれた。
あなただけが私に歌ってくれた。
そのあなたが歌をやめる?
信じたくないよ。
そのとき初めてくっきりと思った。自分のこの思いを伝えられない、今の自分がただただ口惜しいと。
どうして、私はおもちゃなんだ、と。
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