第61話 歌

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第61話 歌

ライブ会場は空席もなく賑わいを見せている。 「ライブが中止にならなかったのって、瑠璃の圧力ってやつだよな…」 「あの会見、どのくらいの人が信じただろう?」 「さぁ。でも、何度もワイドショーで流れたから、嘘か本当かなんてどうでもいい人間にとっては、unanimousを使わない理由はなくなったんだと思うよ。翡翠が瑠璃の娘っていうのが公になって、話題になるからってテレビのオファーが入って来てるから」 「ごめんなさい」 「翡翠は歌で返せばいいんだよ」 「なんとかなるよ」 「え?禅の言葉とは思えないんだけど?」 「やっぱパパになるやつは違うなぁ」 禅と美夏の間に子供が出来て、2人は急いで籍を入れたばかりだった。 美夏が喜んだのは当然のことながら、美夏の父親はもっと喜んだ。 産まれるのはまだまだ先の話だと言うのに、既に準備を始めたらしい。 堅実な禅らしからぬ授かり婚に、みんな驚いたが、禅が妙に楽観的な言動を見せるようになったことには、もっと驚かされた。 「ほら、楽しい時間が始まる」 ライブも終わりに近づいた頃、悠二がマイクを持った。 「最後になりましたが、ゲストを紹介させてください」 会場内がざわめく。 「最初で最後になるかも!母娘共演です!」 わっという歓声に包まれて、瑠璃が舞台に現れると、そのまま翡翠のそばまで行き、頬にキスをした。もちろん小声で言うのも忘れなかった。 「営業スマイル」 「もう、ひと前でやめてってば」 笑いながら翡翠が瑠璃を押し除ける。 「また週刊誌にでちゃう」 会場で笑いが起こった。 「それでは最後の歌になります。曲は『空に聴け』」 「ねぇ待って!音無しで行きたい。マイクもいらない。翡翠もいらないでしょ」 そう言うと瑠璃は2人分のマイクを悠二に渡した。 「翡翠、わたしは少しキーを下げていくから」 「わかった」 瑠璃が翡翠に視線を投げかけるのを合図に、歌が始まった。 狭い会場ではなかった。 それでも、後ろまではっきりと響き渡る、翡翠と瑠璃の歌声は圧巻だった。 そして即興にも関わらず、翡翠に合わせて歌う瑠璃とは、完璧なハーモニーだった。 歌が終わった後、あまりの迫力に圧倒されたのか、一瞬の間があって大きな拍手と歓声に包まれた。 「じゃあね、翡翠。もう会うことないだろうけど」 「それでいい」 そんなことを言われたのに、瑠璃は笑顔を見せた。 瑠璃を乗せた車が見えなくなってから、翡翠は隣にいた比呂に向かって言った。 「あの人が出ること、わたしだけ知らなかったってこと?」 「その方が良かったでしょ?」 「そうだけど…」 「あの日、向こうの責任者と、こっちの事務所とで話し合いがあった時、瑠璃が参加してて、このことを提案された」 「わたしがあの人を引っ叩いた日?」 「そう。なんとかしたいって思ってくれたんだよ。ライブが中止にならないように力も貸してくれた」 「そんなこと一言も…」 「過去はどうあれ、今回瑠璃が、こんな小さなライブに出てくれたことは、どれだけ無理を通したかわかってる?」 「でも、あの人は私情で動いたりしないって」 「口ではそう言ってたかもしれないけど、翡翠のこと考えてくれてるんだよ」 「それでも、やっぱりわたしは、あの人を許せない」 「いいけど。一緒に歌ってわかったんじゃない?2人は歌で繋がってるってこと」 「わかりたくない」 「強情だなぁ」 「比呂にはわかんないよ」 「うん。わからない。2人の問題だから他人の僕には理解できない」 「ごめん」 「いいよ。翡翠は湊にだけ素直でいたらいい」 「そーいう全部見透かしてます感やめて」 「最初はどうあれ、湊が今も翡翠と一緒にいる理由考えたことある?」 「理由?」 「考えてみたら?あいつ大切なことはあんまり口に出すようなやつじゃないから」
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