第1話 ボーカル不在

1/1
前へ
/63ページ
次へ

第1話 ボーカル不在

「だーかーらー、さっきから違うって言ってるだろ!」 音の鳴り止んだスタジオで、声だけが響く。 「言われた通りやってっけど?」 「それが違うから違うって言ってるんだよ!」 「わけわかんねぇ」 「もう一回頭から」 曲の最初から演奏が繰り返される。 けれどもギターがメロディに入っても、ボーカルはただ突っ立っているだけで歌おうとしない。 「オレ、無理だわ」 それだけ言うと、一度も曲の最後まで歌えないまま、ボーカルだったはずの男は出て行ってしまった。 「ゴメン。またやっちまった」 「しょうがないよ、比呂は偉大だったから」 「オレら、お前が納得するまで活動休止状態で全然いいからさ」 そうは言っても、このままでいいわけがない。 「ちょっと頭冷やしてくる……」 ロックバンドunanimousは、ボーカルの春日野比呂、ドラムの菅野禅、ギターの佐倉悠二、そしてベースの槙野湊の4人で始めたバンドだった。 小さなライブハウスでの活動から始まり、自主制作のCDを手売りする傍ら、ツテを使ってCDをいろんな店に置いてもらったり、皆バイトを掛け持ちして、スタジオ代を稼いでやってきた。 きっかけは、とあるラジオ番組で、有名アーティストが「最近耳にしていいと思った曲」としてunanimousの曲を紹介してくれたことだった。 瞬く間に動画再生回数が飛躍的に伸び、ワンマンライブができるようになった。 そんな状態が1年以上続いたある日、現在所属する芸能事務所から声がかかった。 ボーカルの比呂のルックスも手伝って、unanimousの名はあっという間に広まり、殺人的スケジュールに追われる日々が始まった。 比呂に咽頭癌が見つかったのはそんな絶頂期とも言える時だった。 最初は声が掠れる程度で、風邪が長引いているんじゃないかとタカをくくっていた。しかし、良くなるどころか、症状は悪化していき、精密検査をすると、咽頭癌であることが発覚した。 年齢的にもかなりめずらしいケースだった。 手術と抗がん剤を使用した長い闘病生活を終えた後、日常生活に支障はないところまで回復したものの、比呂は、ボーカルとしての音を失ってしまった。 unanimousは、メジャーデビュー後、3年目にして活動休止に追い込まれた。 比呂に変わるボーカルを探すも、納得できる声に出会えないまま、月日だけが空しく過ぎていく。 それだけ比呂の存在は大きなものだった。
/63ページ

最初のコメントを投稿しよう!

52人が本棚に入れています
本棚に追加