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第一章 裂ける悪意
1.
目覚ましの音楽が鳴り始めた。
次第に意識が自分の手に戻ってくるのを感じながら瞼を薄く開いた。穏やかな曲調が気に入ってアラームに設定したものの、今となっては眠りの終わりを告げる不愉快なメロディーでしかなかった。
時計は午前9時を指している。カーテンの隙間から差し込む日差しが眩しい。
颯真はのろのろとベッドから起き上がると、テーブルの上のスマホを手に取った。最近変えたばかりのケースがまだ手に馴染まない。何度もスマホを落とす颯真を見て先週、 亜月が買ってくれたものだ。耐衝撃性が売りのケースらしい。亜月も色違いで同じものを買ったのだが、スマホ用のポシェットから微妙にはみ出してしまうことに後になって気がついた。残念がる亜月に、今度は自分が新しいポシェットを買ってあげると約束した。
颯真は画面のロックを解除すると発信履歴の一番上にある亜月の名前をタップした。電話はワンコールで繋がった。
「あ、俺」
「おはよう。ちゃんと起きれたね」亜月の弾むような声が聞こえた。
次の日の起床時間を亜月に伝えておくのが颯真の習慣だった。予定時間を10分過ぎても電話がない場合は、亜月の方からかけてくることになっている。
「もう、ばっちり」颯真はあくびを噛み殺しながら言った。
「そうは聞こえないけど」
颯真はスピーカーボタンを押すと着替えを始めた。
「亜月、今夜大丈夫?」
「大丈夫だよ。今日は一日予定なし」
「そうか。敦裕と咲世ちゃんも予定通りだって」
「敦裕くんは休みだろうけど、咲世ちゃんは今日仕事でしょ。大丈夫なの?」
「あの子のことだから上司を蹴散らしてでも来るんじゃねえか」
電話の向こうで亜月が笑った。
「颯真は午前中、教習所だよね?」
「うん」
「免許とれそう?」
「そりゃあ、まあ」颯真は言葉を濁した。「しかし毎週土曜日に通うのはしんどいなあ。こんなことなら学生の時に取っときゃよかったよ」
「そうだけど、あの頃は車の免許なんて考えもしなかったしね」
「まあな」
あの頃は、か。颯真は考えた。そんな言葉でたどる思い出が随分増えた。この先も過ぎていく日々と同じ数だけ増えていくのだろう。
「で、俺らは『SOH’s』で待ち合わせってことでいい?」颯真が訊いた。「俺は1時には行けると思う」
「うん」亜月が答えた。「私は早めに行って先にお昼食べてようかな」
「そうしなよ。新作のランチメニューがあるかもよ。一昨日、板波さんが言ってた」
「そうなんだ。絶対おいしいんだろうね。でも、やっぱりオムライス」
「だろうね」
亜月は『SOH’s』のオムライスが大好物だった。最後の晩餐はこれしかないと断言している。
「なによ」亜月が不満げな声をだした。口を尖らせているのが目に浮かぶ。
「なんでもないよ」
もう、と亜月が唸った。「その前に本屋に寄っていくね」
本屋とは亜月の部屋の近くにある大型のリサイクルショップだった。店の半分が古本売り場で、そこだったら何時間でもいられると亜月は言っている。
「わかった。けどちゃんと店に来いよ。本屋に行くといつも夢中になるんだから」
「分かってるよ」亜月はすねたような声を出した。
「それならいい」
「それで、咲世ちゃんたちは直接現地に来るの?」
「うん。ほんとあの二人はカラオケが好きだよな」
「そうだね。咲世ちゃん、自分のSNSに書いてたよ。週末カラオケに行くんだって。楽しみなんだね」
「誰に宣伝してんだよ。ていうか彼女、よくネットに顔出せるよな」
「部分的ではあるけど……そうだね。咲世ちゃんにも言ったんだけど……まあ、咲世ちゃん美人だから」
「おおらかって言うか能天気って言うか。それは敦裕も同じだけど。なんでもいいけど普通に居酒屋じゃだめなのかね。たまにはゆっくり飲みてぇよ」
「まあまあ」亜月が颯真をなだめた。
「はいはい」颯真はジーンズのファスナーを上げながら口元を緩めた。
「じゃあ颯真、後でね」
「うん、後でな」
着替えを済ませリュックを背負うと、颯真は部屋を出た。
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