想い出の香り、おつくりします

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 簡単な朝食と身支度を済ませて少し早めに家を出た。授業はいつも夕方からだが、教材の準備がある。大通りに面した歩道を歩きながら授業の内容をぼんやりと頭の中で組み立てる。熱意があるわけではない。ただ、中学生の前で恥をかきたくないという、どこで活かせるかも分からないプライドがそうさせるのだった。  義彦の自宅から塾までは徒歩で十五分程。暑さが体に堪えるので、バスを使ってもいいのだが、何しろ金がもったいない。バスの定期代として塾側から支給されているが、それを定期代として遣わずに生活費に充てていた。バスを使うのは雨か雪が激しく降っているときだけとマイルールを課していた。ひたすら歩道を真っ直ぐ進み、駅前の歩道橋を渡ればすぐの場所に義彦が働く塾があった。今日もいつもと同じように歩道橋の階段を上る。  ふと、自分の数メートル先を歩く少女の後姿が目に入った。小学校低学年くらいだろうか。白いワンピースを着ていて、黒の長い髪が風でふわりと舞う。半袖からのぞく手は子供だからか余分な脂肪がなく、真っ直ぐに伸びている。何が義彦の興味を惹いたのか分からない。ちなみに義彦自身にそういった性癖もない。  あぁ、そうだ。似ているんだ。  興味の理由が何なのか、結論にたどり着いたと同時にその少女が階段の途中で振り返った。絶妙なタイミングで振り返られ、義彦自身もどきりとする。少女と義彦の視線が交わった。少女は全体的に色が白い。大きな黒目に形の良い鼻、薄い桃色の唇、何の変哲もない子供だったが、義彦はその少女から目が離せなかった。そのまま階段を上って追い越しても良かったはずなのに、義彦自身もそこで立ち止まる。二人の周りだけ時間が止まったかのようだった。車の音も、人の声も、足音も何も聴こえない。そして、少女が薄い桃色の唇をすうっと開いた。何かを伝えようとしているのか。義彦がわずかに身を乗り出した瞬間のことだった。  少女はその場から落ちた。というより、少女が自らジャンプしたように見えた。義彦をめがけて。まるで、義彦が少女をしっかり抱きとめると確信があったかのように。義彦も慌てふためきながら、少女を落とすまいと両手を反射的に伸ばす。キャッチした。よし、もう大丈夫だ。少女には怪我はない。 「少女には」だ。義彦は少女を抱きとめたまま、歩道橋の階段から落ちた。仰向けの状態だったので頭を強く打ったようだ。後頭部に鈍い衝撃を感じた瞬間、義彦の意識は遠ざかった。
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