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「義彦さん、私はお仕事に行ってきますね」
翌朝のことだった。ふんわりもっちりとしたバタートースト、緑いっぱいのサラダ、カリカリに焼かれたベーコン、程よい半熟加減の目玉焼き、豆から挽いたコーヒー。これらの贅沢な朝食を済ませた後、ベルガモットが義彦に声を掛けてきた。一晩眠っただけで昨日の怪我のことはすっかり忘れてしまっていた。それだけ軽症だったのだろう。絶対安静と言われたのでそうしなくてはならないが。とはいえ、破格の家庭教師代に三度の飯を世話してくれるのは有難かった。義彦に与えられた部屋には最新型のエアコンが備わっており、夜も快適に眠れた。そのため、無理にでもここを出て行く理由がない。人が作ってくれた食事をゆっくりと堪能するのは久しぶりだった。これなら一週間と言わず、もう少し長くここにいたいとさえ思い始めていた。
「はい、行ってらっしゃい」
今日のベルガモットは栗毛色の長い髪をひとつ結びにしている。上は淡い水色のブラウスに下は紺色のパンツスーツというシンプルな服装だった。
「お店には制服があるんですか?」
「調香室では白衣を着ますね。販売の人手が足りない場合は私もお店に出るのですが、その時はお店指定のエプロンを付けます」
アロマショップとはそんなに忙しいのだろうか。販売の人手が足りなくなるほどに。気になって疑問をぶつけてみた。
「あの、そのアロマショップはどこにあるんですか?」
「駅前通りです」ベルガモットが迷うことなく答える。駅前通りならきっと義彦も知っているはずだ。駅前通りには義彦が働く塾がある。しかし、そんなアロマショップなどあっただろうか。興味が無いから普段から素通りしてしまっているだけなのか。
「俺の働いている塾も駅前通りなんですが、全然知りませんでした。お店の名前は……」
「おっと、急がないと遅刻してしまいます。行ってきますね。華子ちゃんのことよろしくお願いします。お昼ご飯は冷蔵庫に二人分のお弁当があるので温めて食べてください」
華子が笑顔で手を振っている。急いでいるベルガモットをこれ以上引き留めることはできなかった。店の名前は後でネットで調べればいいだろう。義彦もベルガモットをそのまま玄関先で見送った。
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