想い出の香り、おつくりします

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夏の暑さが残る九月下旬の正午前。花江義彦(はなえよしひこ)はワンルームマンションのパイプベッドの中で目を覚ました。 「暑……」寝返りを打つと、高音とも低音ともつかないやや不快な軋む音がする。大学入学と同時に購入した安物だが、あれから四年以上も経つと、その不快な音も生活音の一部として定着してしまった。  生活費を切り詰めているので、クーラーを四六時中稼働させるわけにはいかない。寝るときにタイマーを付けており、昨晩は深夜二時に寝たので、タイマーはとうに切れてしまっている。  ベッドから身を起こし、水道から注いだコップの水を一息に飲み干す。ぬるい水が喉を通り切ったところで、本日の予定を確認する。今日のアルバイトは夕方から。予定はそれだけだった。いつものことだ。  大学は二年の夏に退学している。そこから中学生を対象とした塾講師のアルバイトをメインに、生活費が足りなくなると、深夜の単発アルバイトを入れたりして細々と食いつないできた。塾講師のアルバイトは採用の条件として、大学在学中、もしくは大学卒業を前提としていることが多いが、最近どこの塾でも人手不足なのだろう。二年生で中退した義彦でも快く雇ってくれた。  約三年、講師の仕事に特別やりがいを感じるでもなく、かといってサボったり、遅刻や欠勤が多いわけでもない。淡々と季節を重ねていき、義彦は先月二十三歳の誕生日を迎えた。いつまでもアルバイトでいるわけにはいかない。そうと分かっていても、生活がそこまで困窮していないからか、就活に向けて真剣に動き出すことはなかった。  独身一人暮らし、彼女無し、想い人も無し、人間関係も職場で挨拶や業務連絡を交わすのみ。酒や煙草、異性遊びにも興味が無い。特別のめり込むような趣味もなく、たまに文庫本を買ったり、DVDを借りて自宅で一人観たりする程度だ。誰かと会話をする時間より、唇を引き結んでいる時間の方が圧倒的に多い。日中はワンルームマンションと職場を往復するのみ。花江義彦は人柄も、生き方も、面白みに欠ける人間だった。 「今日は社会と英語か」文系の義彦は国語と社会、英語を担当している。複数の科目を担当できた方が時給が良いし、塾からも重宝される。子供たちに教えるのが好きだという気持ちよりも、稼がないと生活ができなくなるという気持ちから、なんとか自分を奮い立たせていた。幸い、義彦の住む地域は、おとなしい生徒が多い。率直に言えば扱いやすい。だからこそ大きな不満を持たずに塾講師を続けられていた。
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