迷子のお知らせ

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 迷子のお知らせ  子供というのは目を離すとしょっちゅうどこかに行くものだ。美味しそうなお菓子やお気に入りのアニメの絵を見つけるとすぐそっちに飛んで行ってしまう。人間の世界は便利なもので、群れからはぐれるとお知らせが響く。いわゆる犬の世界でいうところの遠吠えみたいなものだ。人間には奇妙なルールが多いが、迷子のお知らせのシステムだけはいつもよくできていると感心する。つまり、これを聞いたら群れの中で一番弱いやつがピンチということだ。崖で取り残されたり、鷹にさらわれたりすることもあるかもしれない。俺としては黙ってはいられない。  そのスーパーで「迷子のお知らせです」とアナウンスが聞こえるやいなや、俺は立ち上がり、遠吠えを始める。すると駐車場にいる誰もがこちらを振り向く。それから一人の女が駐車場から慌てて駆けていくのが見えた。おそらく迷子の親だろう。 「ハチはいつもこうね」  ふっと首輪の抵抗がなくなるのを感じる。買い物を終えたお母さんが戻ってきたのだ。今日も袋いっぱいになにかを買っている。俺の頭をひとなですると、「ほら、帰るよ」と話しかけた。ちゃんと俺の夕飯も忘れずに買っただろうか。カリカリしたやつよりもしっとりしたやつが好みなのだが。  お母さんの隣には珍しくめぐみがいる。両手に買い物袋を抱え、袋からはネギが飛び出している。今晩の夕食は鍋かもしれない。めぐみは俺の妹だ。小さい時から世話の焼けるやつで、いつも泣いていたが、何年か前からいっちょ前に就職して一人暮らししている。一人暮らしを始めた当初は頻繁に帰省していたが、今では帰るのも盆正月だけだ。親は知らないが、俺は知っている。めぐみは職場に彼氏がいるのだ。昔から両親には話せないことも、なんでも話す。俺は頼れる兄というわけだ。 「迷子のお知らせに反応してるってこと?」とめぐみがお母さんに尋ねる。  あたりまえだ。何もないのに吠える犬などいない。まあ、ときどき例外はいるが。 「昔からずっとよ。覚えてない?」  そう言うと、めぐみは首を振った。人間の記憶力というのもあてにならないものだ。 「昔あんたが迷子になったときにハチが吠えて知らせてくれたの」 「えー、ほんと? 全然記憶にない」  めぐみが驚いたような声で言った。やれやれ、まったく世話の焼けるやつだ。あの日のことは今でもよく覚えている。小さい頃のめぐみはすぐにフラフラどこかに言ってしまう子供だった。迷子になってなきべそをかいていためぐみのためにこの俺が一肌脱いだというわけだ。  めぐみは大きくなったが、俺の方はすっかり老いぼれた。人と犬の寿命はちがう。 「じゃあ久しぶりに散歩に行こうか」とめぐみが言うのでそれに付き合った。本当のことを言えば、最近は散歩に出るのも難儀なので家でのんびりしたかったが、めぐみと会うのも久しぶりだ。積もる話もあるだろう。  土手を抜けて河原のほうまで歩く。年末の肌寒い気候だったが、日差しが暖かい。いつもならうるさいくらい俺に話しかけてくるめぐみが、どういうわけか今日は元気がない。おおかた彼氏と喧嘩でもしたのだろう。坂道を登りきると「ちょっと休憩しようか」とめぐみが言って俺たちはベンチに座った。 「ハチ、あたし、ちょっと失敗しちゃってね、会社やめちゃおうかなと思ってるのよね」とめぐみがぽつりと話し始めた。  自転車の買い物カゴいっぱいに食材を詰めた中年の女が走っていく。数人の高校生が談笑しながら歩いていった。河原では子どもたちがキャッチボールをしていた。時折風が俺たちの頬をなでた。  人間には奇妙なルールが多い。俺にはどうしてそんなことでめぐみの元気がなくなるのか、それがよくわからない。めぐみは嫌な客の話やムカつく上司の話をしている。そんなに嫌ならやめればいいだろう。スーパーにいけばしっとりした缶詰のごはんが置いてあるし、蛇口をひねれば水もある。夏は暑くてまいってしまうが、秋冬は日差しが暖かい。でもたぶんめぐみは辞めないだろう。小さい時からそうだ。弱音は吐くが、そのぶん粘り強い。  すっかり日が傾き始めたころ、俺たちは家に帰途に着くために歩いた。話し終わっためぐみはすっきりした表情だ。自分で作った変な歌を歌いながら歩いている。人が来たら慌てて歌うのをやめるが、あれはたぶん聞こえているぞ。小さい頃はたまに散歩の最中に道を間違えて帰れなくなったので、俺が教えてやったが、今はもう道を間違えることはない。  眠りにつく前、寝床でうとうとしていると、時折自分の生物学上の親のことを思う。物心ついた頃に別れてしまったので、親がどんな犬だったのかわからない。俺が迷子になったとき、俺を求めて遠吠えしただろうか? いくら考えても腹が減るだけなので、難しいことを長くは考えない。大事なのは俺が群れからはぐれないこと、それと、俺よりも弱いやつが群れからはぐれそうになったとき、力一杯吠えることだ。 「おやすみ、ハチ」  そう言ってめぐみが玄関の電気を消した。 了
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