夫に早く死んで欲しい

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 夫との出会いは、私が会社に入社したときだった。彼の部署に配属されて、知り合った。  短大を卒業したばかりの、二十一歳の頃。  警備会社。私は、その技術課の事務。彼は、技術課の主任だった。    主任の仕事は、契約者のところに出向いての警備機器の取り付け。および、取り付けた警備機器の定期的な点検業務。それらがないときは、営業担当に警備機器についての説明をしていた。  私の仕事は、主に資料作り。彼等が取り付けた警備機器について、建物内の設置場所等を図面にした資料。その資料が、定期点検時に必要になる。  当然、主任と私の関わり合いは、深かった。話すことも多かった。  主任は、明るい人だった。営業の調子がよくて何件も契約が取れた時は、取り付け作業が深夜までかかることがある。それでも、笑顔を絶やさなかった。  当時、主任は三十歳。二十代前半と言っても誰も疑わないであろう童顔。小柄な体つき。私は現場を見たことがないけれど――機器取り付けの配線技術は、見かけによらず凄いらしい。  そんな主任の左手の薬指には、指輪が光っていた。既婚者。愛妻家で、口を開けば奥さんの話ばかりしていた。 「ウチの嫁が――」  主任の口からその言葉が出なかった日は、私の記憶にある限り、一日もない。  私は、短大生のときに不倫を経験している。バイト先の店長との不倫。もっとも、私は、彼が結婚しているなんて知らなかった。  初めての彼氏だった。正直言って、浮かれていた。  ある日、知らない番号から着信があって。出てみたら、店長の奥さんだった。  電話に出てすぐに、私は奥さんに罵られた。意味が分からなかった。彼が結婚しているなんて知らなかった私は、ただただ呆然とするしかなかった。  奥さんは店長との離婚時に弁護士を入れたが、私が慰謝料を取られることはなかった。店長が結婚しているなんて、知らなかった。そのことが、チャットの履歴で証明できたから。まあ、甘い言葉のやり取りを他人に見られるのは、拷問のようだったけど。  当たり前だけど、私は傷付いた。ショックだった。店長のことが、本当に好きだったから。慰謝料を取られなかったことなんて、何の慰めにもならない。  私は、好きな人に騙されていたのだ。裏切られていたのだ。店長の、若い女とセックスがしたいという欲望のためだけに。その事実が、私を奈落に落とした。少なくとも、男に期待することはなくなった。  ――なくなった、と思っていた。  でも、時間というのは不思議なもので。店長との関係が過去のことになってゆくと、徐々に傷は癒えていった。また誰かを好きになれる程度には。  職場で、好きな人ができた。  人を好きになるのは、幸せなことだと思う。仕事が好きじゃなくても、職場に行くのが楽しい。ほんの少しの時間でも、好きな人と一緒にいられる。そんな理由だけで、胸を弾ませて出勤できる。  でも、その幸せを濁らせる事実が、ひとつだけあった。たったひとつだけど、重大過ぎる問題。  私が好きになったのは、主任だった。つまり、既婚者。毎日欠かさず奥さんのことを話題に出すほどの、愛妻家。  私にとって久し振りの恋。その気持ちを自覚した直後に、失恋が決定した。  あんなに奥さんが大好きな人と、付き合えるはずがない。そもそも、過去の不倫の経験から、既婚者と付き合うのは懲りている。久し振りの恋は、ただ見つめるだけの恋になった。  絶対に手に入らない、大好きな人。  それでも私は幸せだった。明るい彼の童顔を見ていると、心が和んだ。口を大きく横に広げて、奥さんの惚気を撒き散らす。奥さんが大好きなのだと、その表情が語っている。彼の部下は「またかよ」なんて顔をしているけど、そんなことにも気付かない。延々と、奥さんの話をしている。  私は、そんな彼が好きだった。不倫なんて考えもしないであろう彼が、大好きだった。奥さんを心から愛している彼が、大好きだった。  これは、絶対に叶わない恋。だからもちろん、私の胸の中にあるのは、幸せな気持ちだけじゃない。チクチクと胸が痛む。時には、ギュッと胸が締め付けられる。大好きな人は、どんなことがあっても、私を好きにはなってくれない。その事実に、悲しくなる。  それでも私は、主任が好きだった。  だから。  ゆっくりと、この気持ちを胸の中で溶かしていこう。そう、思った。  世の中の男は、店長のような下半身先行で生きているような人ばかりじゃない。主任のような愛妻家もいるんだ。私は、こんな人を好きになったんだ。  いつか、この気持ちが落ち着いて。主任への恋心が、尊敬する上司への愛情に変わったとき。きっと、いい恋をしたと思えるはずだから。  胸が温かくなる思い出になるはずだから。  ――けれど、そんな日が来ることは、永遠になかった。  私が入社して二年目。二十三になったとき。そんな、ある日。  主任が、真っ青な顔で課長に何かを伝えていた。主任の話を聞いた課長は、慌てた顔をしていた。課長と話した後、主任はすぐに早退した。  後になって知った。主任の奥さんが、交通事故にあったのだと。だから、いつも明るい主任が、あんなに真っ青な顔をしていたんだ。  主任の奥さんは、亡くなった。青信号で道路を渡っていたときに、高齢者の運転する車に轢かれて。右折してきた車。それほどスピードは出していなかったから、体の損傷は少なかった。けど、打ち所が悪かったそうだ。  私は、課長と一緒に奥さんの葬儀に参列した。主任のチームの一員として。  いつも明るかった主任。大きな目を細めて、口を大きく横に広げて、日課のように奥さんの惚気話をしていた主任。最近なんて、奥さんの写真を自分のデスクに飾っていた。奥さんと行った温泉旅行だそうだ。  写真の中で、奥さんは、足湯をしながら微笑んでいた。優しそうな人だった。  その奥さんの微笑みは、もう二度と、主任のもとには戻らない。棺の中で、死化粧をされて、二度と目を開けることはない。  奥さんの棺の前で、主任は大泣きしていた。大きな目から、ボロボロと涙を流していた。あの小柄な体のどこから、あんなに大量の涙が出てくるんだろう。そんな疑問が浮ぶくらい、主任は泣いていた。  本当に、本当に、奥さんが大好きだったんだ。  本当に、本当に、奥さんを愛していたんだ。  いつもの明るい主任は、葬儀のどこにもいなかった。  それから一ヶ月ほど、主任は仕事を休んだ。  会社が規程している忌引き休暇は、配偶者や二親等以内の家族であれば一週間。けれど、課長もさらに上の人も、主任が長期欠勤することに文句一つ言わなかった。  真面目に仕事をしていた主任。惚気話がうっとおしい以外は、部下に慕われている主任。奥さんが大好きだと態度で物語っている主任。そんな彼が、奥さんを亡くしたのだ。人格が腐っている人でもない限り、欠勤する主任を責められないだろう。  奥さんの葬儀からひと月経って、久し振りに主任が出勤してきた。 「ごめんな、迷惑かけて」  そう言った主任は痩せ細っていて、目の下には隈があった。  みんなが主任を心配していた。主任は、そんな周囲の声に「大丈夫だよ」としか言わなかった。顔には、無理矢理浮かべた笑み。惚気話をしていた頃の笑顔じゃない。  あの主任の笑顔は、二度と戻らない。  出勤してきた主任は、どこかおかしかった。ささいなミスを繰り返す。認知症のように物事を忘れる。目を開けたまま意識を失っているかのように、虚空を見つめる。  明かに異常だった。明かに、心を病んでいた。そんな状態でも、無理矢理、数日間仕事をしていた。  私の大好きな主任。私の大好きな、奥さんのことが大好きな主任。  彼のそんな姿を見ることに、私は耐え切れなくなっていた。  大好きな人が壊れてゆく姿なんて、見たくない。  私は、昼休み中に、給湯室に主任を呼び出した。回りくどいことをしないで、直球で告げた。 「病院に行って下さい。心療内科とか、心のケアをするところ。それで、しばらく休んでください」  主任は少しキョトンとした後、苦笑した。 「そんなこと、できるわけないだろ。ただでさえ、嫁が亡くなったときに一ヶ月も休んだんだから」  彼は、給湯室でコーヒーを入れた。インスタントコーヒー。馬鹿みたいな量の粉を入れた、馬鹿みたいに濃いコーヒー。  私は知っている。主任は、もうずっと、こんな馬鹿みたいに濃いコーヒーを飲んでいる。無自覚に飛んでしまう意識を、覚醒させるために。彼の意識を飛ばしているのは、疲れや眠気なんかじゃないのに。カフェインなんかではどうにもならないのに。 「これ以上休んで、みんなに迷惑かけられないよ」  私の心に、怒りが芽生えた。  そんな状態で出勤される方が、よっぽど迷惑だ。そんな苦しそうな顔を見せられる方が、ずっと迷惑だ。壊れてゆく姿を見せられる方が、はるかに迷惑だ。  奥さんの後を追ってしまうような姿を見せられる方が、泣きたくなるほど迷惑だ!  無意識うちに、私は手が出ていた。右手で、思い切り、主任をひっぱたいた。彼が手にしていたインスタントコーヒーが床に落ちて、中身が散らばった。  叩かれた主任は、叩かれたことよりも、私の顔を見て驚いていた。  私は、ボロボロと涙を流していた。それこそ、奥さんの葬儀での、主任みたいに。 「そんなボロボロの姿を見せられる方が、よっぽど迷惑です! 辛いんです! 苦しいんです! 主任、奥さんが亡くなって苦しいんでしょう!? 大好きな人が亡くなって、悲しいんでしょう!?」  感情に任せて、私はまくし立てた。涙と一緒で、言葉が止まらなかった。 「私、今、そんな気分なんですよ! 好きな人が今にも死にそうで、辛いんです! そんなところ、見たくないんです! だから、帰って下さい! ちゃんと病院に行って下さい!」  私はきっと、凄く変な顔をしていた。癇癪(かんしゃく)を起こして泣きじゃくる、子供みたいな。そんな顔になっていたと思う。  涙で曇った私の視界の中で、主任は少し、目を伏せた。眉をハの字にして。申し訳なさそうな、驚いたような、困ったような。そんな、複雑な表情になっていた。 「ごめんな」  一言だけ謝って、主任は、床に散らばったコーヒーの粉を片付け始めた。  私はボロボロと涙を流しながら、主任の片付けを手伝った。  主任はその日から、また一ヶ月ほど休んだ。心療内科に通って、診断書を会社に提出して。病気療養ということになった。  心を休ませ、癒す時間。  休養が明けて出勤してきたとき、主任の顔色はかなり良くなっていた。療養休暇の前に比べて、少し太ったみたいだった。  律儀な主任は、出勤してすぐに、会社の人達に謝罪をして回った。上司達に対してだけじゃない。自分の部下にも、深く頭を下げていた。 「迷惑かけたな。ごめん」  心から出るその言葉は、彼の誠実な人柄を物語っていた。  主任は最後に私のところに来ると、他の人達のときと同じように頭を下げた。 「迷惑かけて、ごめん」  下げた頭を上げた。奥さんが元気だった頃に比べると弱々しいけど、主任の笑顔が、そこにはあった。 「あと、ありがとう」  その「ありがとう」は、病院に行くことを勧めたことに対してか。それとも、どさくさ紛れの告白に対してか。  どちらなのかは分からなかったけど、私はホッとした。ようやく、主任が帰ってきてくれた。そんな気分になった。  その日から、私と主任は、以前よりもよく話すようになった。半年くらいすると、一緒に食事に行くようになった。  奥さんの最初の命日に、お墓参りに同行してほしいと頼まれた。ひとりで行ったら、その場から動けなくなりそうだから、と。案の定と言うべきか、主任は、お墓の前で泣きじゃくった。  嗚咽を漏らす彼の背中を、私はずっと撫でていた。彼の涙が止まって、立ち上がるまで。  枯れるほど泣いたからか、その日以降、主任は元気を取り戻したように見えた。彼の口から奥さんの惚気が出ることは、もうない。うっとおしいけど幸せな話は、もう聞けない。  痛みは、確実に、主任の心に残っている。元気になったといっても、悲しい気持ちや寂しい気持ちが消えることはないだろう。それでも、もう、奥さんの後を追う心配はなくなった。  安心する気持ちと、嬉しい気持ち。そんな気持ちを抱えながら、私は、主任と接していた。大好きな人が壊れてしまう心配がなくなった。それだけで、なんだか幸せだった。それまで以上に主任と行動する機会が増えて、一緒にいる時間が多くなった。  奥さんの二度目の命日も、一緒にお墓参りに行った。  二度目の命日には、主任は泣きじゃくったりしなかった。  奥さんのお墓に手を合せた後、真剣な顔で告白された。 「俺を支えて欲しい。俺に支えさせて欲しい」  まるでプロポーズのような告白だった。  お墓に手を合せたときに、奥さんに謝ったという。好きな人ができたんだ、と。いつかあの世で再会したら、殴ってもいい。でも、今は見守って欲しい、と。  私達は付き合い始めた。一年半後には結婚した。  私が大好きだった、奥さんのことが大好きな主任。そんな彼が、私の夫になった。  私は彼の、奥さんになった。  結婚と同時に退職して、私は専業主婦になった。夫は係長になっていたから、経済的に不安はなかった。  結婚生活は、私の想像とは大きくかけ離れていた。ううん、想像以上だった、と言った方が正しいかも知れない。  夫は、帰宅したらすぐに私に抱き付いてくる。キスをして、甘えてくる。その仕草が彼の童顔によく似合っていて、可愛いなんて思ってしまう。  セックスもいっぱいした。枕元で、夫の口から何度「好き」という言葉を聞いたか。数えることなんてできないくらいに、たくさん。  休みの日や連休のときには、必ず二人で過ごした。旅行にも行った。夫は常に、私と一緒にいたがった。  結婚生活が二年目に入って。  周囲からすると、いつまでも甘ったるい夫婦に見えるだろう生活を送って。  私は少しずつ、不安になってきた。毎日抱き付いてくる夫。キスをしてくる夫。常に私と一緒にいたがる夫。  そんな彼を見ていると、不安になった。  私の不安は、ある日、的中した。  クリスマス近くの冬の日。  私は高熱を出した。四十度以上の高熱。インフルエンザだった。  熱で朦朧とした。視界が歪んで、立っているのも辛かった。平衡感覚がなくて、景色が揺れて見えた。  そんな視界の中でも、はっきりと見えたものがある。  夫の顔だ。  夫は、泣いていた。不安と恐怖に怯えた顔で、涙を流していた。体温計で熱を測って、私の熱が四十度を超えたことを確認すると、一瞬の躊躇いもなく救急車を呼んだ。  119番の電話の向こうに、夫は泣きながら訴えていた。 「妻が死にそうなんです! 助けてください! お願いだから妻を助けて!」  夫は、明かに狼狽していた。平常心なんて、どこにもなかった。 「妻を助けて!!」  錯乱したように、訴えていた。  私は四十度以上の高熱が出ている病人なのに、自分のことよりも夫の心配をしてしまった。  夫は、私のことが大好きなんだ。愛しているんだ。きっと、会社では、いつも惚気ているんだろう。部下達に、いつも「ウチの嫁が~」なんて言っているんだろう。  亡くなってしまった奥さんと、暮らしていたときのように。私がまだ、夫にとってただの部下だったときのように。  でも、あのときとは違うことがある。  夫は一度、奥さんを亡くしている。  大好きな人を亡くしている。  救急車で運ばれながら。大粒の涙を流して私の名を呼ぶ、夫を見ながら。朦朧とする意識の中で、夫を安心させようと「大丈夫だよ」と声をかけながら。  私は、恐かった。  もしも、と考えてしまった。  もしも、私が死んでしまったら。  夫が、奥さんと同じように、私も失ってしまったら。  夫はまた、心を病んでしまうだろう。奥さんを亡くしたときと、同じように。  ううん。  熱にうなされながら、私は、自分の考えを否定した。  違う。奥さんを亡くしたときと同じように、じゃない。  私が死んだら、夫は、もう立ち直れない。  心が壊れて。体も壊して。ボロボロになって、泣きながら死んでしまうだろう。 「大丈夫だから、心配しないで」  安心させたくて、夫に伝えた。  私は、夫のことが大好きだ。彼のことが好きだと自覚したときから、ずっと、ずっと、大好きだ。  大好きな人には、幸せでいてほしい。  たとえ、周囲に惚気話ばかりして、うっとおしいなんて思われていても。夏場の暑い日にくっついてきて、汗だらけになっても。童顔で、九つも年下の私より年下に見られていても。もう結構な歳のくせに、セックスの頻度がやたらと多くても。  そんな夫が大好きだから、笑ってほしい。  そんな夫が大好きだから、不幸になってほしくない。  私は、夫を幸せにしたい。幸せに生きて、一緒に歳を重ねて、いつか、安らかに永遠の眠りについてほしい。できれば、笑ってあの世に旅立ってほしい。    だから、私は死ねない。夫より先に死ねない。私の死を目の当たりにしたら、夫は、間違いなく不幸になるから。  いつか夫が永遠の眠りにつくときは、手を握ってあげるんだ。 「大丈夫だよ」 「私は側にいるよ」  そう言って、微笑んであげるんだ。たとえそのとき、彼の目が見えなくなっていたとしても。  だから。  夫に早く死んでほしい。  私より早く、死んでほしい。  永遠の眠りにつくあなたの手を、私は、最後まで握っているから。  冷たくなってゆくあなたの手を温めるように、握っているから。  あなたが幸せに包まれたまま、眠りにつけるように。  私は大丈夫だから、安心してね。心配しないでね。そう伝えて、眠るまで見守ろう。  夫が、幸せでいるために。  夫を、幸せにするために。  夫に、もう二度と、あんな悲しい顔をさせないように。  (終)
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