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 誰もいないと知りながら、楓は律儀にお邪魔しますと言って玄関で靴を脱ぎ、勝手知ったるって感じで洗面所で手洗いうがいをする。  その間俺は、散らかった部屋を気持ち程度に片付け、楓と交代で洗面所を使う。  母親は数年前に風俗嬢を引退し、今はクラブのママをやってる。いつも朝か昼くらいに帰って来るから、夜は大体俺一人。  寂しいと思ったことはない、ってのは嘘だけど。  さすがにもっと小さい頃は一人で寝るのが怖かったし、寂しかった。  だけど女手一つで必死に俺を育ててくれた母親のことは尊敬してる。普通に、心から。 「あ、そうそう。斗真、これ」  俺の部屋で各々の定位置――楓はベッドの上、俺はベッドの下のラグ――に座った時。  楓が持って来ていた紙袋から、ベージュのふわふわとしたものを取り出した。 「……マフラー?え、リミテじゃん」 「今日雑誌の撮影だったんだけど、サンプルで貰ったからあげる。お前そのブランド好きでしょ?」 「うん。かなり」  楓は読者モデル(読モ)のバイトをしていて、たまにこんな感じで、服やら小物をサンプルで貰ったり、割引で安く買ってきたりする。  事務所には所属してないから、あくまでバイトって感じらしいけど。 「これもリミテでしょ」  楓が言って、俺のピアスに触れる。  Paraíso al Límite(パライソ・アル・リミテ)、通称リミテは、海外でもめちゃくちゃ有名なブランドのセカンドラインで、俺の一番好きなやつ。セカンドっていっても、結構な価格帯だからそうそう買えるもんじゃない。  俺もバイトはしてるけど、一応、家にも金入れてるからそんなに自由に使えないし。  このピアスだって、引っ越し屋のバイトで金貯めて、何ヶ月もかけてやっと買えた。  そんなリミテのマフラーなんて、すげぇ嬉しいはずなのに。  今はただ、耳に感じる楓の指の感触で、頭ん中はいっぱいになってる。  楓の指は細くて長い。爪も艶々してて、指先まで綺麗だ。その指が俺のピアスと耳たぶを弄るように触って、離れていく。 「マフラー、つけてみ?」 「……うん」  急に温度がなくなった耳から、意識を引き剥がす。  軽くて柔らかいマフラーを巻いて「どう?」と楓を見た。
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