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「あら、おかえりなさい、あなた。ねぇ見て、思いきって借りちゃったの」
「……何だこれは」
病気の妻が『窓』を借りたと言う。
彼女が指差す先、確かにそこには、買い物に行く前にはなかった窓が存在していた。
いつの間に工事なんてしたのかと驚いたが、良く見るとその窓は、ポスターのようにただ壁に貼られただけの物だった。
妻はもう、残り半年の命だと医者から聞かされていた。
最後の時間くらい長年暮らした家で過ごさせてやろうと、先週病院から引き取ってきたばかりだったのだが、妻はほとんど寝たきり、僕も外では杖をついて歩く。
そんな老夫婦の生活なんてたかが知れていて、日々交わすのは天気の話や流しっぱなしのテレビのこと。ヘルパーや妻の往診の予定を確認する程度だった。
妻を看取れば、次は自分の番だ。
そう覚悟した僕達の終の住み処は、何でも捨てられず物を持ちたがるらしい年寄りの家にしては、酷く殺風景だった。
そんな最低限の物で構成された部屋に突如として現れた、妻のベッドからよく見える謎の窓。
繊細なタッチで絵描かれた窓枠と青空に、僕は思わず眉を寄せる。
「ポスター……壁紙か? 何でまた、窓なんて」
「うふふ、この前ねぇ、朝木さんが教えてくれたのよ」
「……あさ……? 誰だ?」
「ほら、先日お名刺頂いたでしょう?」
そう言って、妻がベッドから手の届く引き出しから取り出したのは、名前と連絡先だけ記された簡素な名刺だった。
そして直ぐに思い当たる。先日やって来た、若い男。随分と穏やかそうな声と雰囲気をしていたから、うっかり家に上げてしまった、黒いスーツ姿のセールスマンだ。
あまり顔はよく覚えていないが、確か死後がどうのと話していたから、宗教か葬儀関連の営業だった。
妻はまだ生きている。そんな不謹慎な話を聞かせたくなくて、ろくに話も聞かず追い返したのだが、妻が名刺を貰っていたとは気付かなかった。
「あいつか……しかし何でまた、窓なんて」
「それがねぇ、お外に出られなくて退屈だろうからって。この窓でね、昔わたしが見た景色が見られるのよ」
「……?」
「今日は、わたしが小学校に通っていた時の教室を見たのよ」
「そう、か……良かったな?」
妻に認知症は無かったはずだが、寝たきりの生活で何か変化があったのかもしれない。
何にせよ、借りてしまったものは仕方ない。妻の久しぶりの笑顔を見て、あまり否定するのも良くないと思い、僕はその場では何も言わなかった。
*******
翌朝、妻を起こしに行って驚いた。
彼女は既に目を覚ましており、その視線の先、昨日の窓には青空ではない景色が映っていたのだ。
「これは……」
「おはよう、あなた。見てくださいな、これ、わたしが初めてお勤めしたお店なのよ」
にわかには信じられない。けれど確かに、その平面の窓に映し出されているのは、もう何十年も前の建物だった。
駅前に今もある、老舗デパートの改装前の姿。約十年毎にリニューアルを繰り返しては、時代を反映して来た地元民馴染みのデパート。その最も古い記憶にある外観と、酷似していた。
しかも、じっと見ていると、まるで車窓からの景色のように、中の景色が動き出したのだ。
建物の外観を見上げていたかと思うと、歩くような速度で建物の内部へと入り、当時の売り場や、そのデパートの昔の制服を着た人物達まで映し出される。
「何なんだ、一体……」
僕は妻のベッドの端へと腰掛けて、呆然と窓を眺めるしか出来ない。
しかし妻は、懐かしがるように微笑みながらその光景を見詰め、時折嬉しそうに声を上げた。
「まあ、このお客様、若い頃のあなたにそっくり! あの頃は気付かなかったけど……もしかして、これが本当の最初の出会いだったりするのかしら?」
「……」
まだ寝惚けているのかも知れない。そう思いながらも、こんなにもはしゃぐ妻を見てしまっては、邪魔など出来るはずもなかった。
やがて三十分程でその映像は終わり、窓はいつの間にか、元の描かれた青空へと戻っていた。
「ふふ、今日も楽しかったわぁ」
もう窓が映さないことを確認し、妻は満足したように寝転がる。いつもは背に支えがあって身体を起こすのがやっとだというのに、今日は自分で身体を起こして、三十分間支えもなく座り続けたのだ。
この窓が何物なのかわからないが、寝て食べるしか楽しみの無かった妻のやる気や生きる希望に繋がるならと、試しにそのまま貼り続けることにした。
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