さようなら空色

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 遥の言葉が途絶えた。  大地は知らぬ間に自らのグラスへと落ちていた視線を遥の顔へと戻す。彼女はなにかを見定めようとするように虚空を見つめていたが、彼に頷きかけて表情を緩めた。全てを語り終わったのだ。  大地は口にするべき言葉を見つけられずにいる。  人生でもっとも充実して然るべき二十代の大半を台無しにした、美声を失うという悲劇。それも、不慮の事故のせいなどではなく、夢を目指して努力を重ねたのが原因で。  遥自身は、その件についてすでに心の整理をつけているようだ。しかし、そうはいっても、聞かされた側からすれば重い。重すぎる。  表情を大きく歪めることも、涙を流すことも、言葉を詰まらせることもなく、遥は語り終えた。しかし大地としては、少なからず無理をしていると思わざるを得ない。下手な言葉をかけて、押し殺しているものを溢れさせる可能性を思うと、勇気は萎える。  戻ってこないものに執着しても仕方がない。美声が健在だった時代に、未来の自分が「よくやった」と思えるような作品を生み出せたのだから、それで充分だ。  しかし、そうはいっても、彼女が体験した過去は。 「大地くん、浮かない顔だね」  遥がおもむろに投げかけた声に、大地は我に返る。 「紆余曲折ありましたが今は幸せです、みたいなつもりで話したんだけど、違う受け止め方をしたんだ?」 「はい。時田さんが十年前の出来事を精神的に乗り越えたというのは、ちゃんと伝わりました。だけど、やっぱり、二度と戻ってこないというのは……」 「そうだね。大地くんはもともと十年前の私の声に魅了されたんだから、そういう感想を持って当たり前だと思う。私だって、完璧に割り切れているのかって問われたら、気持ちよくは頷けないし。――だからこそ、大地くんにお願いがあるの」  目を丸くして遥を見返す。彼女の顔つきは至って真剣だが、瞳の色は穏やかで優しい。 「いっしょに来てほしい場所があるの。移動に一時間くらいかかっちゃうけど、やりたいこと自体はすぐに終わるから。だから、付き合って」  アパートまでタクシーを呼び、二人は後部座席に乗り込んだ。 「D町の採石場までお願いします」  遥が運転手に行き先を告げた瞬間、大地は彼女の目的の大まかな方向性を掴んだ。ただ、あまりにも大まかすぎて、緊張と不安の数値は大きくは下がらない。  これから行うとしていることに関して説明する。沈黙する。移動中はそのどちらかになるだろうと踏んでいたのだが、 「気になったんだけど、大地くんの青春時代ってどんな感じだったの? 二十歳くらいのころはなにをしていたのかな。大学生?」  そう質問してきたので、少し戸惑いながらも答えていく。  目標もないまま大学に進学したこと。生来の消極的な性格が祟ってあまり友人はできなかったが、それなりに楽しい四年間だったこと。そして、現在の経済的に恵まれない生活の直接の原因となった、就職活動の失敗。  口を挟むのは最小限の事実確認をするときだけに留め、聞き役に徹するという遥の対応に、涙ぐみそうになる瞬間が二・三度あった。なにかにつけて兄をからかう七海も、就職活動の蹉跌に関してはタブー視していた。過度に同情を寄せるのではなく、物静かに受け止めてくれたのが嬉しかった。  話してよかった。心からそう思えた。  その話題が一段落したあとは、他愛もない話をした。昨日なにを食べたとか、窓外に見つけた風変りな外観の店についてとか、子供のころに好きだった遊びだとか。本当に、本当に、他愛もないことを。そのころには、大地は敬語の束縛から解き放たれて遥としゃべれるようになっていた。  目的地には一時間あまりで到着した。大地は割り勘を主張したが、「長々と話を聞いてもらったうえに、予定外の場所にまで連れ出したんだから」ということで、支払いは全額遥が受け持った。  タクシーが走り去り、彼は前方を見据える。  現在地は、カーブの多い山道を半時間ほど登った地点だ。行き止まりになった終点には黄色いロープが張られ、その先では、小高い山が褐色の肌を痛々しく露出させている。敷地に入ってすぐの場所に立てられた看板の文字は、 「『音の鉱石採石場跡地』……」 「そう、跡地。採り尽くしたから、たとえ道具と知識と技術があっても、きれいな青色にはお目にかかれない。さあ、入ろう」 「いいの? どう見ても立ち入り禁止だけど」 「すぐに出るから、大目に見てもらうということで」  音の鉱石は採れない。それを入手するのが目的ではない。では、なぜこんな人気のない山の中に?  遥に続いてロープを跨ぎ越す。サスペンスドラマで刑事が犯人を追い詰める場所みたいだな、と思う。しかし、追い詰められた犯人がするような重い過去の告白を、彼女はすでに済ませている。  山の間際まで向かうものと思っていた遥の足は、入口から二十メートルほど進んで止まった。平坦な、雑草に覆われた地面。立ち止まった大地に向き直り、彼女は言う。 「今日大地くん相手に話をして、二つのことが分かった。一つは、今日という日を区切りに、私は新たな道を歩くべきだということ。もう一つは、私がもっとも輝いていた時代のように、美しい声で歌ったり演じたりしたいという欲望が、まだほんの少しだけ残っていたこと。新しい道を進むためには、未練を断ち切らなければいけない。断ち切るために、十年ぶりに歌ってみたい。他の誰でもなく、大地くん、あなたに聴いてもらいたいの」  大地の心臓が変調をきたした。体温は少し上昇したらしい。身震いをしなかったのが不思議なくらいだ。 『アヴェ・マリア』だ。遥は『アヴェ・マリア』を歌おうとしているのだ。 「喉に負担をかけるといけないから、ほんの少しだけ歌わせて。言うまでもないことだけど、あのときみたいな美しい声では歌えない。あのころの私の声が好きな大地くんからすれば、不愉快以外のなにものでもないと思う。それでも聴いてくれる?」 「もちろん」  迷いなく首を縦に振った。遥の顔に柔らかな微笑みが灯った。しかしすぐに引き締め、深く息を吸い込む。  寂然とした採石場跡地に『アヴェ・マリア』が流れ出した。濁声で歌われる『アヴェ・マリア』。  空色の鉱石に封じられた歌とは似ても似つかない。それでも大地の胸は震えた。何十回も鉱石の『アヴェ・マリア』を聴いてきた彼は騙されない。  ソラの正体は時田遥だ。  大地の砂を噛むような日常に光をもたらした人は、遥だったのだ。  歌い終わったあとの世界を、永遠にも似た静寂が支配している。  いかに感動したかを言葉にして遥に伝えたい欲求はある。しかし、自分の語彙と表現力では十分の一も伝えられないと考え、沈黙を選択した。  大地が熱烈に感銘を受けたことや、その気持ちを伝えたがっていることを、遥は見抜いたらしい。照れ隠しのように前髪を触りながら、はにかむように白い歯をこぼした。それを見て、彼も表情を緩めた。  無理に言葉を絞り出す必要はない。微笑みを交わすことすらも、もしかすると不要なのかもしれない。  同じ場所、同じ時間に身を置き、言語化できない感情を暗黙に共有する。  それだけで充分だ。 「聴き苦しい歌を聴かせたお詫びじゃないけど」  遥はジャケットの内側からなにかを取り出した。空色とラピスラズリ色の中間の色をした、掌サイズの四角い箱だ。流れるような手つきで蓋が開かれ、中に収まっていたのは――音の鉱石。 「この鉱石、常に持ち歩いているものなの。勤務中も制服の内ポケットに入れていて」  癖というほど頻繁にではないにせよ、遥は自分の胸に右手を宛がうしぐさをよく見せていた。鉱石を秘めていたからこその無意識のしぐさだったらしい。 「いつか奇跡が起きて、あのころみたいな声が戻ったときは、この鉱石に声を録音しよう。そんな思いから購入して、肌身離さず持ち歩いていたんだけど、今日でもう虚しい執着は断ち切ることにした。でも、捨てちゃうのはもったいないから、大地くん宛にメッセージを吹き込んでプレゼントするね」 「メッセージ?」 「そう。前向きなメッセージを吹き込むから、生きるのがつらくなったときに聴いてくれると嬉しいかな。ちょっと失礼」  遥は早足で山のほうへと遠ざかり、ほどなくその足を止めた。鉱石を握りしめた右手を口元に宛がい、なにかしゃべっている。二分ほどで戻ってきた。 「早かったね」 「うん。くどくどとしゃべるのも興醒めだから、シンプルなメッセージを簡潔に。受け取ってくれる?」 「もちろん」  鉱石が小箱に収まり、大地の手に渡る。プラスティック製の立方体には遥の温もりが移っている。  この熱を、大地は生涯忘れないだろう。  ていねいな手つきで小箱をポケットに収めた。  遥が行方知れずになったのは、その翌日からだ。 「時田さんなら、おととい限りでここを辞めましたよ。詳しいことは聞いていませんが、家庭の都合だそうです」  夜が明けても昨日送ったメールに返信はなく、思い切ってかけた電話は「おかけになった電話番号は現在使われておりません」。すぐにでも美術館に駆けつけたかったが、大地には仕事がある。本日の仕事を済ませ、職場から直接駆けつけた美術館の受付で、職員の女性からそう告げられたのだ。  なにか引き出せる情報はないか、職員相手に粘ってみたが、時間を空費しただけだった。形だけの礼を述べて、美術館を飛び出した。大地が鉱石の声を聴かずに退館したのはこれが初めてだった。  彼女のアパートを訪れ、自室のインターフォンを何度も鳴らしたが、応答はなかった。大家のもとへ行って尋ねてみると、遥はおとといに部屋を引き払ったという。美術館のときと同様、大家相手にも彼女に関する情報を求めたが、個人情報の保護という分厚い壁を越えることは叶わなかった。  その日の夕食は、藁にも縋る思いで、いつの日か遥と食事を共にしたファミリーレストランで食べた。しかし、彼女は現れなかった。  翌日は仕事を休み、採石場跡地まで行って待ってみたが、再会は叶わなかった。  さらにその翌日からは美術館通いを再開したが、遥が来館することはなかった。  時田遥は夢幻のように大地がいる世界から消えてしまった。  密度の濃い時間が終わり、正装に身を包んだ大地は一人で通りを歩いている。  七海が事前に予告していたとおり、賑やかで、趣向が凝らされた式だった。騒々しいイベントが苦手な大地も、始まりから終わりまで楽しめた。新郎新婦や両親のように涙こそ流さなかったが、目頭が熱くなる場面は枚挙に暇がなかった。妹が結婚するという事実、それ自体よりも、七海本人や周りの人間が感じ入っている姿を見て、心を動かされたような気がする。 「いい式だったな」  終わった直後、大地の父親はひとり言のようにそう呟いた。大地は「そうだね」と同意した。母親はただ静かに頷いた。  大地の当座の目的は帰宅することだが、遠回りになるルートを歩いている。屋外を出歩くのにふさわしい服装ではないが、もう少し、取り留めもなく物思いに耽りながら足を動かしていたかった。  やがて行く手に公園が見えた。最低限の遊具とベンチが置かれているだけの小さな公園で、人の姿はない。腰の高さのポールをすり抜けて中に入り、日なたのベンチに腰かける。  懐から取り出したのは、青色の小さな箱。  大地はこの小箱を、遥からプレゼントされて以来欠かさず持ち歩いている。「肌身離さず持ち歩いている」と彼女が言っていたからではない。そうするだけの価値があると大地自身が考えたからだ。  小箱から空色の鉱石をつまみ出し、掌で温めて右耳に宛がう。 『夢はある? 希望はある? 明日したいことはある? あってもなくても、今日という日を一生懸命生きましょう。離れ離れになっちゃうけど、私はいつも隣にいると思って。いっしょにがんばろうね』  大人の言葉だ、と思う。大きな挫折を経験した人の言葉だ、とも思う。諦めなければ夢は絶対に叶うだとか、青くさい、それゆえに魅力的なフレーズはどこにもない。  その手のメッセージを贈りたい気持ちが遥にはあったはずだ。しかし、半永久的に残すのは心が許さなかった。大人だから、挫折を経験した人間だから、無責任な言葉は吐けない。彼女はそう考えたに違いない。  ただ、陰気なメッセージでは決してない。肩肘を張らない、温かな前向きさが感じられる。くり返し、くり返し言葉に耳を傾けているうちに、静かに元気が湧いてくる。あとほんの少し勇気が欲しいときに必要なのは、きっとこんな言葉のはずだ。 『夢はある?』 「ないよ。今はまだない」 『希望はある?』 「あるよ。夢は見つけられていないけど、それはある」 『明日したいことはある?』 「うーん、どうだろう。あるような気もするし、ないような気もするし」 『あってもなくても、今日という日を一生懸命生きましょう』 「そうだね。それはとても大切なことだ」 『離れ離れになっちゃうけど、私はいつも隣にいると思って』 「もちろん。鉱石も、小箱も、ずっと大事にする」 『いっしょにがんばろうね』 「――ありがとう、遥さん。僕、がんばるよ」  音の鉱石を小箱にしまい、上着の内ポケットに戻す。  毎日仕事をこなすだけで精いっぱい。金銭的な余裕はない。それでも、なにか新しいことを始めてみたい。  遥にとっての声に当たるなにかを、見つけたい。見つけよう。きっと今からでも遅くないはずだ。  またいつか、遥と再会を果たしたときに、胸を張って近況を報告できるように。
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