1人が本棚に入れています
本棚に追加
街の喧噪と街灯の眩しさが疲労感を倍加させる。胸に占めた切実な思いは刻々と勢力を増していく。
一秒でも早く家に帰りたい。夕食をとって、入浴を済ませて、眠りたい。
乃木大地はこれという趣味を持たない。毎朝早いし、肉体労働なので疲労は激しい。済ませるべき用事を済ませたあとは、さっさと明かりを消して床に就くべきなのだろうが、ついだらだらとスマホをいじってしまう。
大地は無趣味だから、ただひたすらに漫然とネットサーフィンをするだけ。不毛な作業の反復が疲労感を緩やかに増加させ、それが水準を超えることで睡魔を召喚し、スマホを握りしめたまま眠りに落ちることもある。
僕はなぜこんな無意味なことをしているんだ?
なぜもっと時間を有効活用しない?
なにかしなければ。暇つぶしにネットを見るのではなくて、もっと意味のあるなにかを。漫然と余命を削りながら生きるなんて、そんなの、あまりにも悲しすぎる。
眠れない夜、スマホを操作しているさなかに、そんな危機感が大地を我に返らせることがある。
なにかしなければ。
でも、なにをすればいいんだ?
棺の中にも似た静けさに包まれた六畳間で、その疑問を解くことに時間を費やす。
しかし、見えてくるものはなにもない。粘り強く取り組んでも、くり返し格闘しても、結果はいつも同じだ。
僕はきっと、新しいことに挑戦するのではなくて、その日その日を一生懸命に生きていくべき人間なのだ。
やがてイソップ寓話の、ブドウにありつけなかった狐も顔負けの負け惜しみを心の中で吐き、思索の幕は下りる。
僥倖を待つしかない。三十年近くに及ぶこれまでの人生で、小さな光さえ手に入れられなかった僕が、自力で自分を変えられるはずがないのだから。
蛇足のようにそう付言して、現実逃避するように部屋を消灯する。狐よりも哀れで、救いようがない。
横断歩道の歩行者信号が点滅し始めた。走れば赤に変わる前に渡りきれそうな位置を大地は歩いていたが、そうするだけの元気はない。あと一歩で白線を踏むというところで、赤に変わった。足を止めると、自ずとため息がこぼれた。
大地の左右に、背後に、続々と人々が立ち止まる。本日の労働から解放された彼らは、ひっきりなしにしゃべっている。上司への愚痴、親に対する不平不満、急用が入って恋人と休日を過ごせなくなったこと。
聞けば聞くほど大地の気持ちは沈んでいく。
仕事はつらいが、愚痴を言える友人がいる。ぶつけたい文句は数あるが、家出を検討するほど酷い親ではない。恋人と今週末は遊べなくなった代わりに、来週の日曜日に遊びに行く約束を交わした。
暗い色調の中にも慰めがある。共感できるようだが、実際には大地を突き放している。
大地には寄りかかれる人間がいない。友人も、恋人も。二十九歳は親にすがる年齢ではないし、三つ年下の妹は来月に結婚式を控えている。
『どんな人かって? 難しいけど、一言で言うと頼りがいのある人かな。兄貴と違ってね』
「……ああ」
こぼれた嘆息を、彼の程近くを通り過ぎた若者たちの下品な笑声のかたまりがかき消した。
早く帰りたい。夕食をとって、入浴を済ませて、眠りたい。そうすれば、ままならない現実に向き合わずに済む。
そう考えた直後、大地は異様な響きを孕んだ声を耳にした。音源は、彼の後方。
一言でいえば、濁声。道行く人々に広く呼びかけているようだ。喧噪と、濁っているという性質が相俟って把握するのが遅れたが、声を発しているのは女性。十代の弾けるような瑞々しさはないが、中年には達していない。
声を耳で追っているうちに、大地は心地よさを感じ始めた。困惑を禁じ得なかった。濁りを帯びた声は、大別すれば不快に属する音声のはずなのに。
濁声には、いったいどんな魔法がかかっているのだろう。疲労感と虚無感に苛まれる日々を送っているから、ハンディを抱えながらも恥じることなく、一生懸命になにかに励む姿勢に好感を覚えた? それとも、声自体になにか秘密が隠されている?
大地は肩越しに音源を振り向いた。
胸にチラシの束を抱えた女性が、通行人に盛んに呼びかけながら一枚ずつ配っている。大地と同年配だろうか。身に着けた衣服は、紺色を基調としたフォーマルなもので、受付業務に従事する人間の制服を思わせる。
唐突に女性が動きを止め、大地を振り向いた。行き交う人々の隙間を見事に縫って、二人の視線は重なる。
彼はたじろいだ。素知らぬ顔をしてそっぽを向きたかったが、相手が真っ直ぐに見つめてくるので逸らせない。
女性はチラシの束を抱え直し、大地へと歩み寄ってきた。口元は綻んでいる。顔を戻すと、歩行者信号は赤色のままで、逃げる口実はないのだと悟る。
「こんばんは」
女性は満面の笑みでチラシを差し出してきた。
「再来週、美術館でトークショーがあるので、よろしければご来館ください」
彼女の濁声は喧騒の中でも独特の存在感を放っている。欠点を少しでも補おうとしているのか、一言一言を明瞭に発音するので、声質の割に聴きとりやすい。そのおかげで不快感が全くない。
大地は体ごと女性に向き直り、差し出されたものを受け取る。紙の上部にこんな文言が大文字で記されていた。
『K市声と音の美術館 秋の声優トークショー』
「お兄さんは、声優さんに興味あります?」
女性は立ち去らずに話を振ってきた。にこやかな表情は維持したままだ。
「いえ、あまり。アニメとか、声優とか、そちらの方面には興味なくて」
「そうですか。『声と音の美術館』に来ていただいたことって、ありますか?」
「ないですね。存在は知っているんですけど、足を運んだことは一度も。えっと、美術館の職員の方ですよね」
「そうです。音声を録音できる石、ありますよね。音の鉱石。それを視聴するエリアを普段は担当しています。トークショーに呼ぶのは、そちらのエリアに作品を展示している声優さんなんですよ」
女性はその声優のプロフィールや代表作などを、軽やかに、歌うように述べ立てる。Tという名前のその女性声優も、Tが主要キャラクターの声を担当したというアニメのタイトルも、大地は初耳だ。
声優にもアニメにも興味がないと答えたばかりなのに、その話題を長々と話されても困るんだけどな。
冷ややかな思いが胸を過ぎったが、すぐに心境に変化が生じた。
「その挑発的な発言に対して、毅然とした態度で応じるんだけど、そのさいの演技が神がかっていて――」
生き生きとした話しぶりに惹き込まれたのだ。彼女が現在語っている、声優Tが過去に演じたアニメキャラクターの有名だというセリフは、はっきり言って興味がない。それでも心は緩やかに昂っていく。
人と会話をするのって、こんなに楽しいことだったのか。
大地は誇張ではなく、感動に近いものを覚えていた。
視界の端に映る歩行者信号が青に変わったが、帰り道を急ごうとは思わない。思いがけない場所、思いがけないタイミングで訪れた、眠りに沈まずとも現実逃避できるひとときに、我を忘れてもっと浸っていたい。
それにしても熱心な人だな、と思う。イベントに関心を持ってもらうのが仕事とはいえ、熱がこもりすぎている感は否めない。
まさか、僕に気があるとかじゃないよな。僕に一目惚れをしたから、会話を盛り上げたい一心で、なかば職務を放棄して、自分の好きなことについて熱弁している……。
そう考えたのを境に、大地の心は駆け足で冷えていく。
いやいや、待て、待て。なに調子に乗っているんだ、僕は。見ず知らずの女性が僕に恋愛感情を抱いた? 冗談だとしても酷いぞ。サービス業に従事する女性から、少し優しい言葉をかけられただけで鼻の下を伸ばしている、おめでたい勘違い男みたいじゃないか。本当に気持ち悪いやつだな、僕は。こういうところが、アラサーになっても女友だちの一人もできない原因なんだろうな、きっと。
「えっと、すみません。そろそろ行かなきゃいけないので」
話に区切りがついた瞬間を狙ってきっぱりと告げる。女性ははっとしたように双眸を丸くした。それから唇を苦笑の形に変える。
「こちらこそ、ごめんなさい。少ししゃべりすぎたみたいですね。お忙しいのに、長々と引き留めてしまって」
「いえ、楽しかったです。声と音の美術館、少し興味が出てきたので、気が向いたら行ってみます。ありがとうございました」
信号が青に変わる。同年代の異性と和気あいあいと言葉を交わす気恥ずかしさが、遅まきながら込み上げてきた。女性に会釈し、横断歩道を渡る。
「気が向いたら」の一言を、彼女はお世辞だと受け取っただろうか?
だとしても、嬉しいと感じただろうか?
愚にもつかないと思いながらも、自宅に帰り着くまでのあいだ、ずっとそんなことばかり考えていた。
今日が賞味期限の菓子パンを、ペットボトルの紅茶で流し込みながら黙々と食べ進めていると、テーブルの上のスマートフォンが震えた。
大地のスマホにはめったに電話がかかってこない。一瞬、美術館職員の女性からかとも思ったが、そんなはずはない。間違い電話の可能性も念頭に手にとると、
「なんだ、七海か」
小さくため息をついて通話ボタンをタップする。
「兄貴、出るの遅い! 二秒以内に出てよ」
間髪を入れずに、疲労がピークのときにはとどめの一撃になりそうな、耳障りと紙一重の甲高い声が聞こえてきた。
「無茶言うな。ていうか、なんの用だよ。旦那とケンカでもした?」
大地の妹の七海には、宮城雄大という同い年の夫がいる。正しくは婚約者だが、近々婚姻届を提出し、結婚式を挙げる予定だから似たようなものだ。
「兄貴、わたしが電話するたびにそれ言ってるよね。旦那との関係がどうのこうのっていう、つまらない冗談」
「冗談だって分かっているなら、そう怒るなよ」
「冗談を言うこと自体じゃなくて、つまんないのが悪いって言ってるの。小学生のころから全然成長してないよね」
「幼稚園のときよりは成長しているさ」
「そう? 成長の度合いが小さすぎて分からなかったよ」
こういった、きょうだい同士のちょっとした言い合い一つをとっても、よくぞこうも舌が回るものだと大地は感心してしまう。幼少時まで遡ってみても、口喧嘩をして妹を言い負かした記憶はない。それも一因なのだろう、七海は子どものころからからずっと、兄を下に見ている節があった。
「ていうか、なんの用だよ。つまらない用事でかけてきたんじゃないだろうな」
「割と大事な話。実はね――」
七海は話し始めた。大地は身構えたが、なんのことはない、友人に対する不平・不満・愚痴だ。
やれやれ。胸を撫で下ろしたあとで顔に苦笑を灯し、言葉に耳を傾ける。
さも重大な事件が起きたかのように宣言したが、蓋を開けてみればくだらない話。夫にも、友人にも、両親にも話しづらい話題を誰かと共有したくなったとき、実兄である大地に連絡を入れる。どちらもよくあるパターンだ。
何事もないみたいで、よかった。感想を一言にまとめるならば、そうなる。
七海が宮城雄大との結婚が決まって以来、大地は妹のわがままなところを大らかに許容できるようになった。結婚すれば、妹と会話する機会は減る一方だろうから、あいつのほうから電話をかけてきてくれるのはありがたい。ふとした拍子に、しみじみとそう思うこともある。
ただし、例外もある。
「で、雄大は物凄く嫌々やるのね。雄大がお皿洗いの番だって前から決まってるのに、いざするとなったら急に文句を言い出すわけ。だからあたし、怒ったのね。二人で決めたルールなんだからちゃんと守ってって。そうしたら雄大が――」
夫婦の日常にまつわる他愛もない話。それを聞かされるたびに、大地の胸はやるせなさに染まる。
夫の生活態度に関する不満を訴えているようで、その実のろけ話という、お定まりのパターンだ。似たような話は何度も聞いてきたから、最後まで聞き届けるまでもなく大まかな内容を推測できる。
雄大がなんらかの過失を犯す。あるいは、七海の過失に対する雄大の叱責が、過失の内容の割には厳しすぎる。それが原因で、二人のあいだで諍いが起きる。絶対に自分から謝罪するものか、と七海は心に誓う。両者のあいだに冷たい風が吹くが、丸一日と経たないうちに、雄大は己の非を認めて謝罪する。それがきっかけで頑なな気持ちがほぐれ、七海も謝る。これにて和解は成立。めでたし、めでたし。
ようするに、紆余曲折あっても必ずハッピーエンドを迎える、陳腐だが安心感のある小さな物語。
のろけ話か否かを問わず、七海や両親が雄大の名前を出すたびに、大地の気分は沈む。妹を奪われて嫉妬しているのでも、くだらない話に付き合わされるのが苦痛なのでもない。平凡だが平和な生活の模様を伝えられると、己の悲惨な日常が否応にも際立ち、惨めさに襲われるのだ。
今年で三十路に足を踏み入れるというのに、日々疲労困憊するまで肉体を酷使し、食べていくのがやっとの賃金を得ながら暮らしている自分。異性との交際経験すらない自分。無趣味で、なんの楽しみもない。夢がなく、将来に希望を持てない。
世間一般の三十歳前後の男女と比べると、凄惨だし、異常だ。
「なあ、もうそろそろ切ってもいいか? 食事がしたいから」
会話がひと段落したところでそう告げた。返ってきたのは「えー」という、あからさまに不満そうな声。
「食べながら話せばいいじゃん。あたしは気にしないから」
「僕は集中できないんだよ。食事くらいゆっくりさせてくれ。大事な話とやらはもう終わったんだろ」
「あっ、ごめん。伝えるの忘れてた。一回、兄貴と食事したいなって思ってるんだけど」
「食事? なんでまた」
「式を挙げる前に、そういう機会を一回でもいいから作っておきたくて。兄貴とは週一くらいで話しているし、積もる話があるとかではないんだけど、やっぱりほら、式って一つの大きな区切りでしょ」
「ああ」と大地は応じる。この提案は、あるいは兄のほうから切り出すべきだったのかもしれない。そう頭の片隅で思いながら。
「ちょっと行ってみたい店があるから、そこへ行こう。お値段高めのレストランなんだけど」
「旦那とは行かないの? 気になってる店なんだよな」
「実は、下見も兼ねて行くつもりなんだ」
「なんだ、そういうことか。じゃあ、僕が奢るよ。結婚祝いみたいなものだからね」
「兄貴、お金ないんでしょ。平気なの?」
「それくらいの余裕はある。心配するな」
「そっか。じゃあ、日時と待ち合わせ場所を決めよっか」
今週の土日ならどちらでもいい、と大地が言うと、
「なにも予定がないんだ? 相変わらず寂しい暮らしぶりだね」
「家で体を休めて、月曜日に備えるのが予定だよ」
「なにか趣味でも作れば? そんな生活をしていたら、早く老けそう。女の子にもてるためにも、そういうところから自分を変えていこうよ」
「余計なお世話だ」
引き続き打ち合わせをしたのち、通話を終えた。
「なにか趣味を作ったほうがいい、か」
ふと思い出して六畳間を見回すと、チラシはテーブルの足元に落ちていた。一時間足らず前に女性から渡された、『声と音の美術館』で開かれるトークショーを告知するチラシ。
「声と音の美術館……」
音の鉱石自体に興味はない。ただ、女性と言葉を交わしていた時間、あれはなかなか悪くなかった。
なにかを変えたい。変えなければならない。
手持無沙汰になるとすぐに畳に寝ころがる悪癖を封印して、大地は自らの心臓に刻みつけるように思う。そして、自問する。
こんなところからでも、僕の人生は変わるのだろうか?
最初のコメントを投稿しよう!