さようなら空色

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 遥は大地がいつも利用している入館口とは別のドアから建物に入った。日当たりの悪い場所に面していて、職員専用らしい。  館内に入ると遥は大地から手を離した。その信頼感が、二重の意味で痛かった。  人気のない廊下を進む遥の後ろについていく。両者ともに黙ったままで、靴音がやけに大きく響く。  やがて彼女の足が部屋の前で止まり、ドアが開かれた。  広さは十畳ほど。共にスチール製の机と戸棚が置いてあるだけの殺風景な一室で、どことなく取調室を思わせる。遥に奥側の椅子をすすめられたので、着席する。彼女は向かいの椅子に腰を下ろし、さっそく本題に入った。 「私がトークショーの司会を務めていたこと、大地くんは知っているよね? ていうか、知っていなければおかしい。だって大地くん、中庭まで見に来てくれていたもんね」 「僕が分かったんですか?」 「分かったよ。ステージの上からちょっと探してみたら、思いのほか簡単に。一番後ろにいたでしょ」 「はい。盗みに行きやすいように、建物の近くに」  罪を自白するという、ハードルが高い行動のはずなのに、すらすらと答えられた。 「そのときは正直、大地くんには特になにも感じなかった。ああ見てくれてるんだ、最前列から見られると緊張しちゃいそうだからちょうどいいかな、なんて思っただけで。実は私、トークショーの最中に司会を降板して」 「え……」 「喉の調子が急に悪くなって、声が出にくくなったの。私、長時間しゃべり続けると声の掠れが酷くなって、聴き取るのがかなり難しくなるのね。一時間くらいなら平気だと思っていたんだけど、事前にみっちりリハーサルを重ねたし、なにより緊張していたのがよくなかったみたい。なんとか区切りのいいところまで務めを果たして、別の子にバトンを託した。その子には『もしものことがあったときは頼むよ』って事前に伝えていたから、問題なくやってくれていると思う」  大地は返す言葉もない。  遥は途中で声が出なくなる事態も覚悟しながら、トークショーの司会に臨んだ。  それに比べて、身勝手な理由から罪を犯そうとして、無様にも失敗した自分。 「症状自体は一時的で、比較的簡単に治るものなの。さっき外で大地くんに声をかけたときも、普段と同じ調子でしゃべっていたでしょ? だから、本来であれば舞台袖で控えていなければいけなかったんだけど、ステージから去るさいに何気なく観客席を見たら、大地くんがいなくなっていたのが気になって。心配しすぎかな、とは思ったんだけど、胸騒ぎがするから、音の鉱石エリアまでちょっと様子を見に行くことにしたの。そうしたら、怖い顔をして鉱石を聴いている大地くんを見つけて、なにか変だぞって直感して。物陰から様子をうかがっていたら、あなたは鉱石をポケットに入れてボックスから出た。まさかと思って後を追うと、建物の外に出たから、慌てて呼び止めたという経緯なんだけど。……ああ、忘れてた。鉱石、机の上に出してくれる?」  言われたとおりにする。現れた鉱石を見て、遥は「やっぱりね」というふうに深く二度頷いた。 「大地くんがいたのは未分類ボックスだから、『アヴェ・マリア』が録音された鉱石、ということでいいのかな?」 「はい、そうです」 「大地くんの意見では、『アヴェ・マリア』は307が歌っているということだったよね。そして、大地くんは307の声が好きだと言っていた。つまり、307の声を自分のものにしたいから、盗もうとした。そういうこと?」 「はい。僕は307の声が好きで、中でも『アヴェ・マリア』の歌声は素晴らしいと思ったので、盗もうと思いました」 「大地くん」  遥は肘から先を天板に寝かせ、半身をぐっと乗り出した。食い入るように見つめてくる。 「どうして、よりにもよってその鉱石を盗んだの? あなたが307の声を高く評価しているのは知っているけど、しょせんは無名の女性の声でしょう。確かにきれいな声だとは思うけど、307よりも美しい声なんていくらでもあるよね。盗んでまで自分のものにする価値があるようには、私には思えないんだけど」  星が散った黒目が揺るぎなく大地を見つめる。深奥になんらかの強い思いを秘められていて、彼を真っ直ぐに捉えて放さない。 「だから、説明して。理由を知りたいの。どうしてそこまで307にこだわるの? 惹かれているの?」  尋問者と見なした場合、遥の今現在の瞳は、面差しは、あまりにも人間味がありすぎる。声に関係する仕事に従事する立場としても、一個人としても、真実を知りたい。そんな思いがうかがえる。 「全てを話します。僕は彼女のことを――」  大地は有言実行した。「307番」ではなく「ソラ」と呼んでいること。正体を求めて、インターネットで執拗に調べたこと。本当に感動的な事象に遭遇したときは体温が上昇するのだ、という発見。生活費を稼ぐだけでせいいっぱい、肉体的な疲労が激しく、なんの楽しみもない日々の中で、ソラの声ほど力をくれるものはないこと。  広範にわたる事実の全てを口頭で説明するのは骨が折れたが、それでもソラの声について語った。語らずにはいられなかった。それほどにソラの声は素晴らしかったし、遥であれば必ずや理解してくれると信じてもいた。  きれいな声、美しい声、澄んだ声。  語彙があまりにも足りなすぎて、もどかしい。  天使のような声、光のような声、宝石のような声。  どうしてもっとしっくりくる比喩表現を思いつけないのだろうかと、自分で自分が歯がゆくなる。  言葉を重ねれば重ねるほど本質から遠ざかり、表現に凝れば凝るほど明瞭さを欠くようで、絶望さえ感じた。言葉の選択に気を取られて、あるいは逆に口を衝いて出るままに言葉を羅列するせいで、なにを語ろうとしていたのか、要点を見失うこともあった。  それでも話すのをやめられなかった。ソラに対する想いのほどを語れば語るほど、罪が赦される可能性が高まるかもしれない、という浅ましい期待があったわけではない。ただただ純粋に、ソラの声がいかに素晴らしいかを遥にも知ってもらいたかった。遥なら理解してくれるはずだと思った。だから、しゃべり続けた。  やがて、大地の唇と舌の動きは止まる。  表現のマイナーチェンジもそろそろ限界だったし、一人の人間のことを、一人の人間相手にこんなにも長々と、しかも感情をこめてしゃべったのは初めてで、精神的な疲れを感じてもいた。  遥の顔に注目して、大地は絶句する。  頬を涙が伝っているのだ。  顔が歪んでいるわけではない。満面が悲しみに侵されているわけでもない。表情としては真顔で、しかしただの真顔ではなく、泣いている。洟をすすることも、瞳を潤ませることもなく、ただただ雫を落としている。  大地は最初、泣いている自覚がないのかと疑った。しかし、見つめられていると気がついたとたん、遥は視線を嫌がるように顔を俯け、指先で目元を拭った。ゆっくりとした動作で、左右一度ずつ。視線を彼へと戻したときには、液体は跡形もなく消えている。彼がしゃべっているあいだ、閉ざされ続けていた唇が開かれた。 「大地くんが言うソラは、私よ」  にわかには信じられない発言だった。  しかし、遥は表情も声音も真剣そのものだ。  そして、涙を流したあとで告白した意味。 「信じられない? じゃあ証拠として、307のセリフ、言ってみせようか。多分覚えていると思う」  彼女は一呼吸を置いてから唇を動かした。 「貴様、頭が高いぞ。俺を誰だと思っている。さっさと跪かんか、馬鹿者が」  鳥肌が立った。一瞬、呼吸が止まったのかとさえ思った。  一言一句違わない、まったく同じセリフだ。語句だけではなく抑揚まで、トレースしたかのように酷似している。 「一つだと証拠にならない? じゃあ、他の四つも言ってみるね」  遥は引き続きセリフを暗唱する。どれも完璧だった。少し言い淀んだり、言葉に詰まったりする瞬間さえもない完璧さ。仕事上聴く機会があるとはいえ、一介の美術館職員にここまで完璧な再現は難しいだろう。  やはり、時田遥がソラなのだ。 「信じてくれた? ……大地くんのその顔、真実だと頭では理解できたけど、心では納得できないって感じね。私がソラである証拠をもう少し挙げてもいいけど、残念ながらもう時間がないみたい」  遥は戸棚を見上げた。ガラス製の戸越しに、デジタル式の置き時計が置かれているのが見える。トークショーの終了予定時刻まで、あと十分足らず。 「大地くんは多分、罪を赦してもらいたいからじゃなくて、私が相手だからこそソラへの想いを打ち明けてくれたんだと思うの。それと同じで、私も大地くんが相手だからこそ、私がこんな声になった経緯を聞いてほしい。幸い、私以外の人間には犯行は露見していないわけだし、取引しない?」 「取引、ですか」 「私があなたの盗みの罪を不問に付す代わりに、あなたは後日、私が指定した場所で私の話を聞く。どうかな?」  否も応もなかった。承諾することで帳消しにされるものの大きさという意味でも。彼女が抱えている過去が知りたいという意味でも。  大地が頷くと、遥はやっとのことで表情を少し緩めた。上体を元の角度に戻し、小さくため息をつく。天板を両手で押すようにして立ち上がる。 「出よう。トークショーが終わってしまわないうちに」  遥の手が鉱石を掴む。大地を促して部屋を出て、連絡先を交換する。来た道を逆行して建物を出る。 「鉱石、あとでこっそり元の場所に戻しておくね」  彼女は足早に中庭のほうへと消えた。 「時田さんが、ソラ……」  声に出して呟いてみたが、実感は湧かなかった。  帰宅する道中も、食事をしながらも、畳に寝ころがってスマホをいじっているときも。くり返し、くり返し、執拗なまでに思案した。  何度考えても、ソラの正体は時田遥だとしか思えない。  何度振り返ってみても、告白してからの遥の表情は、声音は、一つ一つの言葉の選び方は、嘘をついているとは思えない。  ソラの正体は誰なのか?  307の声に魅了されて以降、大地はそれを探求することにのめり込んだ時期もあった。しかし、その誰かが遥だとは考えもしなかった。声質があまりにも違いすぎるからだ。完全にノーマークだった。  ソラの正体が、時田遥。  特徴的な声は後天的なものだと本人は語っていた。あんなにも美しい声がああなってしまうなんて、彼女の身になにが起きたのだろう? 具体的に想像するのは難しい。それ以上に、恐ろしい。  そして、別の意味での恐怖も大地は感じている。  ソラの過去が明らかにされてからも、僕はソラを愛し続けられるだろうか? ソラは僕にとっての光であり続けてくれるだろうか?  遥の声が、ソラの声の美しさからはあまりにもかけ離れているから。それもある。しかし、同等かそれ以上に、偶像がただの人間に降格することの重大さ、おぞましさに、今になって彼は恐れおののいている。  話を聞くのはやめにしたいと、時田さんに連絡を入れるべきだろうか?  本気でその道を検討した。窃盗については、誠意をもって謝罪を重ねるとか、交換条件を別のものに変えてもらうかすれば、赦してもらえる気がする。遥が鉱石を盗んだ動機を問い質したのは、情状酌量の余地を見出したかったからではなく、自らが抱え持った真実を打ち明けるきっかけが欲しいだけのようだったから。  しかし、行動には移さない。真剣に検討したのは事実だが、実行に踏み切る未来とのあいだには、短いようで果てしない距離が隔たっている。  怖いもの見たさという言葉があるが、大地の場合もまさにそうだった。彼は真実を知ることを恐れる気持ちと同等かそれ以上に、真実を知りたい欲求がある。  当たり前だ。罪を犯してまで自分だけのものにしようとしたほど、愛している女性なのだから。  ただ、怖いのは確かだし、不安なのも確か。諸々のネガティブな感情は、自力ではどう足掻いても解消できそうにない。  こんなとき、大地がすがりつく相手は一人しかいない。  交友関係の狭さが我ながら情けなかったが、精神的な救いを切に欲している現状、その認識に実質的な抑止力はない。手段にはメールではなく電話を選んだ。 「七海。話がしたいんだけど、今大丈夫?」 「珍しいね、兄貴からかけてくるなんて。ちょっと怖いんだけど」  七海の声からは警戒心がありありとうかがえる。  大地から妹に電話をかける機会は、彼女が一人暮らしを始めたばかりのころに散発的にあったのみ。「交際している男性がいて、たまに部屋まで遊びに来ている」という話を聞いてからは、兄からかけたことは片手の指で数えられるほどしかない。無理もないな、と彼は苦笑する。 「話がしたいというよりも、七海から話が聞きたいかもしれない。もう一回確認だけど、本当に今話しても大丈夫なんだな」 「大丈夫だけど……。あたしの話が聞きたいって、ますます怖いんだけど。兄貴、頭でも打った?」 「まさか。詳細は省くけど、プライベートでちょっと、考えさせられる出来事があってね」  根掘り葉掘り質問を重ねてくるかとも思ったが、七海は先を促した。 「そういうときってたいてい、あらゆることについて考え込んじゃうだろ。本題に関係あることから無関係なことまで、ことごとくネガティブな方向にさ。七海はもうすぐ婚約届を出して式を挙げるわけだけど、不安はないのかなとか、いろいろ考えてね。放っておくのも精神的にしんどいから、それならいっそ電話してみようと思って」 「虫の知らせ的な? でも、わたしと雄大のあいだにはなにもないよ。トラブル的なことは特になにも」 「分かってるよ。七海たちの関係が良好だっていうのは、証拠を示されなくてもだいたい分かる。分かってはいるんだけど、でも、大丈夫だっていう事実を改めて確認しておきたかったっていうか。僕が僕の事情で勝手にネガティブ思考になっているだけだから、七海からすれば迷惑でしかないだろうけど」 「じゃあ訊くけど、あたしはなんて答えたら兄貴を安心させられるわけ? 雄大とは上手くやってるし、結婚後も結婚前と変わらず上手くやっていけそうだから、心配無用。そうとしか答えようがないよ?」 「……ああ。まあ、そうだよな」  気が抜けたような苦笑をこぼし、一転、難しい顔を作って思案に沈む。  妹の結婚に関して、安心できる言葉を引き出す。遥が打ち明ける過去を受け入れる勇気を得る。どちらの目的も果たすためには、どのような問いを設定すればいいのだろう? 「今は順風満帆でも、平和な日常がずっと続く保証はないわけだよね。将来トラブルや躓きがあったとき、どういうふうに乗り越えていきたいと七海は考えてるのかな。心構えのほどを、この機会にぜひとも訊きたいね」 「マジな質問じゃん。真剣なふりしてるけど、実は冗談でしたっていうパターンかと思ったら。これ、おふざけなしで答えなきゃだめ?」 「できればそうしてくれ。こういうのもたまにはいいじゃないか」 「えー、難しいな。……うーん、そうだなぁ」  声音は不服そうながらも、真剣に考えてくれているようだ。もどかしげに唸る声が聞こえるだけの時間が一分近くも続き、 「もちろん不安はあるよ。だって、お互い初めての結婚なんだもん。具体的にどうこうじゃなくて、漠然とした不安ってやつ。だけど、雄大と二人でならどんな困難も乗り越えられるんじゃないかなって、楽観してもいるんだよね。なにかあったとしても、雄大といっしょならまあなんとかなるだろうって。多分だけど、そう思える人とじゃないと、結婚したいとは思わないんじゃないかな。支えてほしいでも、支えてあげたいでもなくて、手を取り合ってがんばっていきたいなって感じ」  七海はそれに続いて、これまで自分とパートナーが共通の困難にいかに対処したのか、過去の事例を引っ張り出してきて語った。いずれの事例でも、二人は直面した困難に対して、互いに相手の気持ちを考えて行動したことで、問題を速やかに解決に導いたようだ。  年齢も、生まれ育った町も同じ、近い将来に永遠の愛を神の前で誓うことになる二人は、パートナーのことを信頼しきっている。だからこそ、息の合った行動がとれ、立ちはだかる障害を乗り越えられた。  大地は兄として、一人の人間として、二人が羨ましいと感じた。同時に、安心もした。さらには、彼が七海に連絡をした一番の目的である、遥の過去との向き合い方についての結論も導き出せた。  時田さんが自身の過去について話すと決意したのは、話すに値する人間だと僕を認めたからだ。僕を信頼してくれたからだ。  ならば、それに応えよう。応える義務が僕にはある。自分のことを信頼してくれた相手を、裏切るわけにはいかない。失望させるわけにはいかない。  明かされる事実がどんなに残酷でも、どんなに悲しくても、受け止めよう。最後まで耳を傾けよう。その結果僕が傷つくのだとしても、さらには時田さんまでもが傷つくことになるのだとしても、きっとそれが最善の選択のはずだ。  七海の語りは徐々に本題から逸れていき、定番ののろけ話なども交えられる。兄の突然の電話に警戒心を露わにしていたころが、遠い過去の出来事のようだ。  大地としてはうんざりするくらい聞いた話題だ。なにより、悩んでいた問題についての結論はすでに出ている。通話を終えてもよかったのだが、好きにしゃべらせておいた。無駄話を許容するだけの心のゆとりがあった。 「というわけなんだけど――って、あれ? そういえば兄貴、なんで電話をかけてきたんだっけ」 「知りたいことはだいたい分かったから、もう充分だよ。ありがとう。いきなり電話して、変な質問して悪かったな」 「やけに素直だね。そっちからかけてきたことといい、兄貴、やっぱりちょっとおかしいよ。マジで訊くんだけどさ、ほんとに大丈夫?」 「大丈夫だよ。僕はいつだって大丈夫だ。少し早いけど、おやすみ」  通話を終えると、大地はすぐさま遥にメールで連絡を入れた。
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