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夜の帳が下りているというだけで、複雑でもなんでもない道でも迷いそうな気がしていたが、大地は無事に『K市声と音の美術館』に到着した。
建物は温かみのある外灯に照らされていて、全容がはっきりと視認できる。小さなレンガ造りの本館は、ヨーロッパの歴史ある建造物のようだ。「声と音」というテーマは、美術のジャンルとしてはマイナーだという認識が大地にはあった。もっと地味な施設を想像していたのだが、いい意味で裏切られた。
自動ドアを潜ると、静けさが一段と深まり、空気が変わった。大地は身が引き締まる思いで受付へと歩を進める。入館料は、懐具合にゆとりがあるとは言えず、美術の類に興味がない大地には割高に感じられた。
館内マップは蟻の巣を想起させ、どの展示室にも複数の入口から入れるようになっている。このジャンルの展示物を鑑賞したい、という希望は特にないので、順路に沿って進むことにする。
『声と音の美術館』という名称を初めて聞いたときは、展示物の具体的なイメージを掴めなかった。大地を歓待したのは、広い意味で音楽に関係する美術品の数々だった。形状も色彩も独特の楽器。人々が音楽を演奏する模様が描かれた絵画。歌って踊る人々の姿が表面に刻まれた陶器。
三つ目のエリアを見学している時点では、特定の一品に強く心を惹かれる体験はまだしていない。絵画や骨董品に触れる機会はこれまでにめったになく、どの展示物にも物珍しさを感じるが、興味関心を惹かれるほどではない。
大地が快さと親近感を覚えたのは、個々の展示品ではなく、むしろ広々としていて深閑とした環境だった。白を基調とした内装には清潔感があり、物理的にも清潔で、温かみのある優しい光が館内を隈なく照らし出している。
何か所目かとなる新たなエリアに足を踏み入れた大地は、久しぶりに人の声を聞いた。
入ってすぐの場所からざっと見回しただけでも、二十人を超えている。一つのエリア内の人口密度でいえばこれまでで最大だ。
空間内のあちこちに、全面ガラス張りの箱が設置されている。大きさは箱によって違うが、最小でも三・四人が入れる大きさだ。内部の中央に、脚の長い、木製の折りたたみ式のテーブルが据えられ、他にもいくつかの物が置かれている。机上で輝いている青いものが展示物らしい。人が集って賑やかなボックスがあれば閑散としたボックスもあり、二極化の傾向が顕著だ。
ボックスには自由に出入りでき、中のものは自由に触って構わない。壁のポスターにそう注意書きが記されていた。
大地は現在地から一番近いボックスを見据える。サイズは平均的で、中は無人。ボックスと同じ材質の透明なドアから出入りするようになっていて、ノブはありふれた真鍮製だ。
「こんばんは」
ボックスに歩み寄ってドアノブを握りしめたとたん、後ろから声をかけられた。特徴的なその声に、大地は聞き覚えがあった。忘れるはずがない。ノブから手を離して体ごと振り向く。
美術館の制服を着た人物が大地へと歩み寄ってくる。昨夜、チラシ配りをしていた女性だ。いい意味で肩の力が抜けるような、柔和な微笑みが満面に湛えられている。大地に親しみの感情を抱いているのがありありと伝わってくる。
二人はエリアの出入り口近くの壁際で相対した。
「来てくださったんですね。びっくりしました」
「はい、気になったので。そんなに驚きました?」
「ええ。私の話を熱心に聞いてくれてはいたけど、そこまで興味があるわけではなさそうだったので。そういうオーラを出す人って、経験上まず来てくれないんですけど、あなたは例外でしたね」
「僕のこと、覚えていてくれたんですね」
「はい。興味のあるなしにかかわらず、真剣に話を聞いてくれた方はやっぱり印象に残りますから」
大地は思わず涙ぐみそうになった。特別な想いが秘められた言葉ではないのは分かっていたが、込み上げてくる感情を押し留めておくのは難しい。
泣きそうになっているのを見られたくなくて、顔を背ける。大地の視界の中央に、入るつもりだったボックスが映し出された。女性は同じボックスを一瞥してから彼を見つめ、
「気になりますか? ボックス内には音の鉱石が展示されていて、自由にお聴きいただけるようになっています。音の鉱石はご存じですか?」
女性に顔を戻して首肯する。そのときには、瞳の潤いは適度に乾いていた。女性の左胸の名札には「時田遥」と記名されている。
「音声作品全般に興味がなくて、聴いたことも触ったこともなかったとしても、存在だけは知っている方は多いかもしれませんね。少し前――三年前だったかな? テレビ番組で特集が組まれた影響で、ちょっとしたブームにもなりましたし。音の鉱石を聴いた経験は?」
「ないです。一度もありません」
「では、聴いてみましょうか。いっしょに入りましょう」
ドアは遥が開けた。大地が先に入り、遥が続く。ドアを閉めたのも彼女だ。
テーブルの上に、底が浅い直方体の木箱が置かれている。内側が細かく木枠で区切られていて、一つの枠に一個ずつ石が収まっている。
手の親指半分くらいの長さと太さで、表面は歪。形だけ見れば、河原に無数に転がっている平凡な石ころだ。
唯一普通ではないのが、透き通るような青一色に染まっていること。
何秒かのあいだ、大地は目を奪われた。
「ラピスラズリに近い色だとよく言われていますね。全部が全部、必ずしも同じ色をしているわけではないのですが、ほとんどの鉱石がその色ですね」
女性が解説する。話し方に淀みがなく、説明慣れをしているのが分かる。
「音の鉱石は、録音も再生も、人肌の温もりを伝えることで可能となります。鉱石を指でつまむか掌に握り込むかして、耳に軽く宛がってください。石によって違いますが、だいたい五秒から十秒ですね。音量はそう大きくないので、石の位置は耳の近くのままで大丈夫ですよ。どうぞ聴いてみてください」
遥は大地から一歩退いた。
木箱は六箱用意されている。底面にラベルが貼られていて、鉱石に録音された声にまつわる情報が明記されている。名称、性別、備考の三項目。六箱の名称欄には全て「513」「790」などの三桁の数字が記されている。性別が女性で、備考欄が空白なのも共通している。
大地は「854」の箱から、アルファベットのAが割り振られた一個をつまみ出し、右耳に宛がう。温もりは伝わっているだろうか、という不安。名状しがたい緊張感。鉱石から聞こえてくるはずの音声、その一点に聴覚を集中させたことで、ボックス越しに届いていた音声の存在感は低下した。遥はしゃべらないし、物音を立てない。感じられるのは見守ってくれている気配のみだ。
前兆もなにもなく、封じられていたものは突然解き放たれた。
『お兄ちゃん、いつまで寝ているの? もう起きなきゃいけない時間だよ!』
媚を孕んだ、幼さが感じられる若い女性の声だ。音質はクリアで、音量はうるさすぎず小さすぎない。セリフは切れ目なく続く。
『いっつもいっつも寝坊して、迷惑かけないでくれる? お兄ちゃんなんだからお兄ちゃんらしく、もっとしっかりして!』
手厳しい叱咤の言葉を最後に、声は聞こえなくなった。
いつもよりも少し速いテンポで心臓が拍動している。体温も上昇したようだ。
大地は耳から鉱石を遠ざけて遥を見た。臆することなく視線を受け止めたその顔は、控えめながらも誇らしげだ。
「どうですか? 初めて鉱石を聴いた感想は」
「驚きました。思っていた以上にきれいに聴こえるんですね。まるで生身の人間が耳元でしゃべっているみたいでした」
「同じような感想を口にされる方は多いですね。ちなみに、どんな内容でした?」
「お兄ちゃんがどうのこうの、みたいなセリフでしたね。少し幼い印象の若い女性の声でした。アニメかなにかのキャラクターを演じているみたいな」
「当館で展示されている鉱石の中では、もっとも多いパターンの音声かな。声優とか、声関係の仕事に就くのを目指している人が、習作として吹き込んだ声ですね。音の鉱石は、発見後しばらくは廃棄に関するルールが曖昧で、現在の基準からすれば不法な形で大量に棄てられたんです。そのときの鉱石が、日本全国の美術館に引き取られて展示されているんだけど――どうですか? 音の鉱石の魅力の程は」
「凄いなって思いました。上手い表現が見つからなくて、小学生の感想みたいだけど、素直に凄いなって。音を録音したり再生したりできる珍しい石、くらいの認識だったんですけど、全然違いますね。さすがは美術館に展示されるだけあるというか」
遥は柔和ながらも真剣さが伝わってくる顔つきで、しっかりと相槌を打ちながら話を聞いてくれた。話し手と聞き手の役割は逆だが、昨夜、遥の名前をまだ知らなかったころに彼女と交わした会話が、快いものだったことが思い出された。
僕は美術品ではなくて、時田さんに会うために美術館まで来たのかもしれない。
そんな思いが、季節外れの薫風のように大地の胸を過ぎった。
「ぜひぜひ、他の鉱石の音も聴いてみてください。お気に入りの声が見つかるかもしれませんよ」
遥は白い歯をこぼし、ボックスから去った。
大地は同じボックスにある木箱の中から、ランダムにいくつか選んで聴いてみた。最初に聴いた鉱石と同じく、架空のキャラクターになりきり、長くても一分ほどのセリフを口述する、という内容だ。
体感としてはあっという間に、木箱内の鉱石をひととおり聴き終えた。
エリア内に用意された鉱石は無数で、とてもではないが全て聴けそうにない。なにを基準に聴く・聴かないを選ぼうか、考えながら通路を歩いているうちに、人物の顔写真が掲示されたボックスがいくつかあることに気がついた。そのうちの一つに歩み寄り、ガラス越しに中の様子を観察する。
顔写真は、録音された声の主のものだった。名前の欄にT何某と記載されている。
「昨日、時田さんが言っていた声優さんか」
Tの備考欄にはびっしりと文章がつづられている。彼女がキャラクターボイスを担当したという作品の中には、アニメに関心がない大地ですら知っているタイトルが一作あった。
声優を目指している人間が練習として吹き込んだものが多い、と遥は説明していた。主役なのか脇役なのかは分からないが、アニメに無関心の人間ですらも知っている作品に参加したのだから、声優として成功を収めたという評価が妥当なのだろう。
ただ、大地は素直に拍手を送る気持ちにはなれない。肉体労働者として砂を噛むような日々を送っている自分とTを無意識に比較し、残酷なまでの格差を思い知って、暗澹たる気持ちになったからだ。
Tの年齢は不明だが、顔貌から推測するに、三十歳よりも二十歳に近い二十代だろう。彼女は、その若さで成功を収めた。
一方の大地は、今年で三十になるというのに、なに一つ成し遂げられていない。それどころか、そもそも夢がないから、成し遂げるための努力さえ行えていない。
声の主の名前や顔が判明している鉱石のほうが、無名の鉱石よりも来館者の人気を集めていることに、ほどなく気がつく。
ただ番号を割り振られただけの鉱石よりも、声の人物の素性が明らかな鉱石を聴いてみたいと思うのは、心情的に理解できる。現在プロの声優として活躍しているのだから、修行時代の声にも実力者としての片鱗がうかがえるに違いない。そんな期待が、人々にその声を聴きたいと思わせ、特定のボックスに群がらせているのだろう。
一方で、どこか納得できない思いもある。
なんなのだろう、このもやもやした気持ちは。
大地はTのボックスに背を向け、密集から遠ざかる。無人の、ありふれたサイズのボックスに入る。
「あれ?」
テーブルの上を見て、思わず声を漏らした。
「307」の木箱の中に一個、空色の鉱石が紛れているのだ。鉱石の色はラピスラズリに似た青色に限らない、と遥が言っていたのは覚えているが、実際に青色以外の石を見たのはこれが初めてだ。
空色の鉱石は「307D」の枠に収まっている。迷いなく手にとり、体温を充分に伝えたうえで、右耳にそっと押し当てた。
『貴様、頭が高いぞ。俺を誰だと思っている。さっさと跪かんか、馬鹿者が』
呼吸が止まるかと思った。
空白が過ぎ去ると、体温が見る見る上昇し始めた。鼓動の高鳴りは、その現象に一拍遅れて始まった。
音の鉱石を初めて聞いたときと同じような体調の変化だ。しかし、変化の速度が明らかに違う。破滅に向かっているかのように駆け足だし、天井が見えない。
大地の世界は、今や空色の鉱石を中心とする極めて狭い範囲内に縮小していた。未曾有の衝撃が彼の心臓を貫いたのだ。
空色の鉱石から聞こえてきた若い女性の声は、特筆するべき透明感を持っていた。高音だが、大人びた落ち着きが全体を程良く引き締めていて、悪戯に耳に響く不愉快さがない。
長所を挙げてみよと命じられたなら、「透き通っている」という形容がふさわしい声であれば、これまでにもいくつかあった。しかし空色の鉱石に封じられていた声は、透明度という観点からは他を圧倒している。不純物が極めて少ないどころか、いっさい混入していない。それでいて、儚さや弱々しさといった、「透明感のある声」に付随しがちなマイナス要素は感じられない。芯が備わっている。宗教に関係する荘厳な歌を歌ったなら、その声は天高く、どこまでも昇っていきそうだ。
大地は「貴様」という単語を聞いた瞬間、強烈に声に惹きつけられ、最大限の集中力と関心をもって耳を傾けることを余儀なくされた。
鉱石が黙り込んだあとも、一連の音声情報を脳内で反芻し、記憶力が許す限りの精密さで再現することに躍起になった。
それに並行して、なかば無意識に、指先から空色の鉱石へと体温を注ぎ込むイメージを強く意識した。しかし、いつまで経っても声は聴こえてこない。温もりが引き金である事実から逆算するに、いったん鉱石の温度が一定以下になるまで待ち、再度熱を伝える必要があるらしい。
無意識に石を強く握りしめていたことに、不意に気がつく。
興奮しすぎている。柄にもなく。逆に言えば、そうさせるだけの魅力が307Dの声にはある。
自分の心と鉱石、両方の熱を冷ますべく、意識的にゆっくりと、307Dを木箱の元の位置に戻す。
名前、307。性別、女性。備考、なし。
以上が、大地を驚嘆させた声の人物のプロフィールの全てだ。
彼は首を傾げる。こんな素晴らしい声の持ち主が、無名だって? なにかの間違いじゃないのか。
ただ冷めるのを待つのはじれったい。307の木箱には、他にも四つの鉱石が収められていて、全てラピスラズリ色だ。
一つずつ取り上げ、耳に近づけ、熱を伝えていく。どの鉱石も、それに応じて大地の耳に声を届けてくれる。
収録されているのは、いずれもなんらかのキャラクターと思われるセリフだ。透明感という要素に注目し、その高さに期待している大地を唸らせるだけの、恍惚感さえもたらす透明感が、どの鉱石の声にも備わっている。演じられるキャラクターやシチュエーションが変わっても、その一点だけは厳然として揺るぎない。
ああ、好きだな――そうしみじみ思う。
声が美しい。ただどれだけの事実が、どうしてこうも魂を震わせるのだろう。
僕は、この声に出会うためにこの場所に来たのかもしれない。
「いかがですか、音の鉱石は」
いきなり声をかけられた。振り向くとドアが開いていて、柔和な表情の遥が戸口に佇んでいる。
「熱心に聴かれているようだったから、お邪魔するのも悪いかなと思ったんだけど、感想を聞きたくて。どうですか? 307番が気に入りました?」
「いえ、そうじゃないです」
言下に否定するという対応をとった。特定の個人に強い感情を抱いていると公言するのが気恥ずかしかったからだが、思わず語気が強くなってしまった。307の魅力を否定していると受け取られるのは本意ではない。目を丸くしている遥に向かって弁明でもするように、
「特定の声にというよりも、今までに聴いた声の全てに感心したという感じですかね。どの声も生き生きとしていて、個性が感じられて」
「音の鉱石の魅力、分かってくださったんですね」
「はい。時間を忘れられて浸っていられるし、とてもよかったです。また来たいなって思いました」
「本当ですか? ありがとうございます」
遥は年端のいかない子供のように破顔し、深々とお辞儀をする。その恭しさに、釣られて大地も頭を下げた。
感謝しなければいけないのは大地のほうだ。
暗澹たる日常に射す光と出会えたのだから。
帰宅後も307の声が耳から離れない。もっと声を聴きたいし、声の主が誰なのかを知りたいとも思う。
大地は自分でも、なぜ彼女の声にこうも惹かれるのかが分からなかった。
美しいのは間違いない。他の声と比べても頭一つ抜けている。しかし、それを差し引いてもなぜ、という思いはある。透明感という美点だけを切り取れば他を圧倒している。とはいえ、総合点の差は頭一つ分に過ぎないのだから。
これまで声というものに関心を持たなかったからこそ、新しい刺激に過剰なまでに惹きつけられるのだろうか。
あるいは、307の声にはなにか秘密が隠されているのかもしれない。「透明感がある」とう月並みな誉め言葉では説明しきれない、なんらかの秘密が。
仮にあるとすれば、大地が声というものに精通していないからこその秘密なのか。それとも、万人にとっての深遠なる謎なのか。
入浴を済ませた大地は、スマホを手に畳の上に寝ころがる。他愛もない動画を試聴して時間を潰していたが、やがてため息とともにテーブルに置いた。再び仰向けに寝そべり、薄汚れた天井をぼんやりと眺める。
からっぽの頭に浮かんだのは、つい一時間あまり前に見たばかりの、音の鉱石エリアの情景。
307のセリフが脳内でランダム再生される。
彼女の声のどこがどう素晴らしいのだろう。他人に素晴らしさを伝えるとしたら、どう説明すれば理解してもらえるだろう。「美しい」とか「透明感がある」といった言葉の他に、もっとふさわしい表現はないだろうか。
取り留めのないことを考えながら聴き入っているうちに、気がついたことがある。引っかかったことがある、と換言してもいいかもしれない。
セリフのテキストや、感情ののせ方、発声の技巧などを総合的に考えると、307が演じたキャラクターは二つに分類できる。五人中二人が、勝ち気な大人の女性。五人中三人が、内気な少女。
これら二種類のキャラクターに宛てる声として、307の声は必ずしも適当ではない気がしてならないのだ。
清澄で穏やかな307の声は、どんな役柄にもある程度適応できるポテンシャルを秘めている。実際、「勝ち気な女性」のキャラのセリフは、迫力と品性という、相反する要素が両立していた。「内気な少女」のキャラのセリフは、ただ幼いばかりではなく、深みが感じられた。
一方で、前者の場合、307の声が持つ、隠しきれない清楚さが若干足を引っ張り、優しい心根の持ち主が空威張りをしているような、やや芝居がかった印象を受けた。後者の場合、声の幼さを完璧に表現しようとするあまり、発音が多少ぎこちなくなっていた。合格点はクリアしていたが、百点満点ではなかった。
307がポテンシャルを最大限に発揮できるのは、落ち着きのある大人の女性を演じる場合ではないか。大地にはそう思える。
307は確かな実力を持ちながらも、不幸なミスマッチが原因で大成を果たせず、夢を諦めざるを得なかった人なのかもしれない。そんなふうに想像は膨らむ。
真相は定かではない。その想像の中に歪みが含まれているのは、自分でもなんとなく分かる。広い意味での「声の世界」に不案内な人間がした想像なのだから、歪んでしまうのも当然だ。
それでも大地は、307の現在は惨めなものである、という思いを捨てられなかった。
それどころか、想像すればするほど、想像の中の307の人生は悲惨なほうへ、悲惨なほうへと転がり落ちていく。
もし307が、己の声を武器に生きていきたいと願い、今も夢に向かって努力を続けているのなら、力になってあげたい。
そう考えたところで、自分が経済的な余裕がない人間であることを思い出した。
大地は広義の若年層に属するが、決して若くない。世の中は金が全てだと盲信する青くささからは卒業済みだが、貧乏人よりも金持ちのほうが得られるものが多い現実を認めてもいる。なにより、自分という一人の人間を生かすので精いっぱいという、厳然たる現状がある。
僕は他人を救うだけの余裕がある人間じゃない。そもそも、307は夢を叶えていないとは限らないし、不幸だとも限らない。いくら謎多き存在とはいえ、想像があまりにも身勝手すぎる。いくら自分の心の中のこととはいえ、あまりにも彼女に失礼すぎる。どれだけ気持ち悪い人間なんだ、僕は。他人よりも自分の心配をするべきだろうに。
自分自身を厳しく叱りつけたことで、際限なく膨らんでいく妄想にようやく歯止めがかかった。気を取り直すように、自らに言い聞かせるように、心の中で呟く。
307番は僕の光だ。
彼女の美しい声に触れることで、つらい日々を乗り越えていこう。
美術館の外では彼女の声は聴けないが、思い出せる。つらいことがあるたびに、暗い気持ちになるたびに思い出して、力に変えて歩んでいこう。
きっとその積み重ねが、なにかが変わるきっかけになるはずだから。
大地はいつしか307のことを「ソラ」と呼んでいた。
鉱石の色がまさにそうだし、澄みきった伸びやかな声は、空間的な広がりが感じられる雲一つない蒼穹のイメージと重なる。
ソラ。その二文字こそ、彼女を表すのにふさわしい。
明日も、彼女に会いに行こう。美術館に足を運ぼう。
決意を胸に、彼は部屋を消灯した。
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