さようなら空色

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「また来てくださったんですね」  逸る心を自制しながら、音の鉱石エリアに足を踏み入れたとたん、入ってすぐの場所にいた遥に声をかけられた。朗らかな笑みが灯ったその顔に、不意打ちを食らった驚きは一瞬で消し飛び、大地ははにかみ笑いを返した。用事があったわけではないらしく、彼女は会釈だけしてその場を去った。  今日もソラのボックスは無人だ。聴こうと思えばいつでも聴ける状況だと確認したところで、通路を移動する。  Tのボックスは今日も相変わらずの盛況ぶりだ。ソラとの差は一目瞭然で、寂寥感が胸を切なくさせた。それでも大地はその場に留まり、プロフィールを眺めたり、T目当ての来館者の様子を観察したりする。  そうする中で、ボックスの内側、ちょうど成人男性の顔の高さに、郵便受けを思わせる外観の金属製の箱が設置されているのを発見した。すぐ横に小型のモニターが取りつけられていて、七桁の数字が表示されている。人気があるボックスだけの特別な装置かとも思ったが、よく見ると全てのボックスに同じものが備わっている。ただし、箱によって数字は異なっていて、ゼロと表示されたモニターも決して少なくない。ソラのボックスのモニターもその数字だった。  説明書きによると、箱は寄付金を入れるためのもので、モニターの数字はその総額らしい。寄付金は全額が本人に送られる。ただし身元が判明していない人物は例外で、美術館に寄付されたものと見なして美術館側が全額受領する。  声優Tへの寄付金額の総計は百万円を超えている。  一方のソラは、ゼロ。  両者を隔てる途方もない距離に、大地は呆然としてしまう。昨夜いったんは封じ込めた思いが滲み出し、胸中に広がっていく。  ソラは今、不幸な境遇にあるのだ。  助けてあげたい。力になりたい。  ジーンズのポケットから財布を取り出す。一万円札が一枚。千円札が四枚。硬貨が十数枚。カードが何枚か。  数センチだけ、財布から一万円札を覗かせてみる。 「いざというとき」のために常に入れておくようにしていて、急な出費を迫られたとき以外には手をつけないと決めている、一万円紙幣。見開いた目で食い入るように凝視しながら、大地は自問する。  今は「いざというとき」だろうか? 高い美的な価値を持つとはいえ、見ず知らずの声の主に捧げても差し支えない金額なのだろうか? 生活に余裕がなくて、本当の意味での「いざというとき」がいつ訪れるかも分からないのに。ましてや、ソラ本人が受け取るわけではないのに。  ただ、見知らぬ、しかし才能のある人間のために、小さくない犠牲を払うというのは、一言では説明が難しい快感を覚える。まだ支払っていない段階なのに、きっと心地いいのだろうな、と確信している。  大地側のメリットはそれだけではない。307に一万円札を寄付したとすれば、その事実は数字としてモニターに残る。寄付制度、あるいは寄付総額を表示するルールが廃止されるまで残り続ける。 『一万円? なんで無名の声なんかにこんな大金が寄付されているの? そんなにいい声なのかな?』  そう興味を持つ人間が現れて、ソラの声を聴いてくれたら、きっと大地は嬉しいだろう。ソラをひとり占めするという特権を失ったとしても、それでもきっと嬉しいだろう。  それを機に有名になってほしいだとか、高望みをするつもりはない。一人でも多くの人間が鉱石を耳に宛がって、ソラの声の魅力を知ってくれたら、それで満足だ。  一万円札を財布から抜き出す。福沢諭吉の顔を二秒間ほど見つめ、穏やかながらも素早い手つきで投入口に押し込む。紙幣が箱の底に落ちる音を聞き届け、右手を腰の高さに下ろす。  全身が奇妙な昂ぶりに包まれている。しばらくのあいだ、彼はある種の放心状態の中にあった。  やがて熱が引くと、口角が自ずと微笑みを形作った。ささやかな歓喜が静かに込み上げてくる。  僕がしたことは間違っていない。好きな表現者に、金銭という形で気持ちを伝える。自己満足だとしても、それで構わないではないか。自分の手で稼いだ清い金なのだから。生活に影響する額ではあるけど、多少切り詰めれば取り戻せる範囲内での出費なのだから。  明日からはしばらく三食菓子パンだな。微笑んだ顔のままそう思う。 「無名の子に寄付とは、珍しいですね」  突然声をかけられて、思わず肩が跳ねた。財布が手から滑って床に落ち、硬貨が床に散らばった。遥は慌てて駆け寄り、手早く拾い集める。大地もすぐに作業に加わる。幸いにも硬貨の総数はそう多くはなかったので、拾い終わるまではあっという間だった。 「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったんだけど」 「こちらこそ、すみません。手を煩わせてしまって」 「でも、びっくりした。名前が明らかになっていない方への寄付は、ほぼゼロ円だから」 「そうみたいですね。他のボックスを見た限り、確かにそんな感じでした」 「どうして307番に一万円を? 音の鉱石エリア担当者として興味があるので、差し支えなければ理由を教えてくれませんか」  財布をポケットに押し込み、頬をかく。  ソラに対する想いを打ち明けるのは、照れくさい。ただ、遥はソラの声を知るきっかけとなった、いわば恩人だ。 「昨日、時田さんに『307番の声が気に入ったのか』と訊かれて、否定したじゃないですか。でもあれは、単に認めるのが気恥ずかしかっただけです。本当は気に入っていました。他にも何人かの声を聴いたんですけど、307が一番好みに合っていました」  胸の内を明かして早々、選択は正しかったと大地は確信する。 「僕、肉体を酷使する仕事をしているから、帰宅したら食べて入浴して寝るだけみたいな、言ってみればすさんだ暮らしを送っているんですよ。無趣味だし、することはスマホでだらだらとネットを見るくらいで。だから、きれいな鉱石に閉じ込められたきれいな声を聴いた瞬間、凄く感動して――」  楽しいのだ。自分の考えや思い、好きなことについて他人に話すのは、とても楽しい。  気がつくと、話すつもりのなかったことまで話している。そして、しゃべりすぎる自分を止めようとは思わない。  遥は、人が変わったような大地の饒舌さにいくらか戸惑った様子ながらも、真摯に会話に向き合ってくれる。その態度の快さに、舌はますます滑らかになる。 「どの石もいいなと思ったけど、特に307はよかったです。強気なセリフを言っているときでもどこか穏やかで、なにより声が澄んでいてとてもきれいで。そんなところが琴線に触れたんだと思います。相性がいいんでしょうね。僕の耳には一番心地よかったです」  どこがどんなふうに好きなのか、もっと詳しく語ろうと思えば語れなくもないが、これ以上は照れくささのほうが上回る。リサーチする立場からすれば物足りないかもしれないが、大地としては目いっぱい譲歩したつもりだ。 「毎日、夜に美術館へ行くという楽しみができて、そういう意味でもよかったなって思います。一万円は、いわばそのお礼ですね。一番気に入った307に、時田さんや美術館への感謝の気持ちを託す、みたいな」 「なるほど、よく分かりました。あなたと話すのはこれで三回目だけど、段階を踏んで当館に、そして鉱石に秘められた声への興味関心を深めてくれているんですね。一職員としてとても嬉しく思います。……ああ、そうだ」  遥は大地を手招きし、通路を進み始めた。彼は訝しく思いながらもついていく。 「推しができたのであれば、こんなサービスもありますよ」  エリアの隅にスチール製の台が置かれている。そこに平積みにされている紙の束から一枚をとり、大地に手渡す。 「指定した鉱石の声にそっくりの声を新たに鉱石に録音し、お渡しするサービスです。プロの声優の方に頼むので、クオリティは高いですよ。よかったら検討してみてください」  昨夜美術館から帰宅した、大地はソラの声を何十回と思い返したが、再現の正確性は時が経つにつれて低下していった。お気に入りの声を任意に再生できる装置を手元に置いておけば、慰めになるだろう。  ただ、「クオリティは高い」というのは所詮サービスを売り込む側の人間の言葉であって、大地を満足させる保証はない。本人の声ではなく、ただ似ているだけの声でそもそも満足できるのか、という疑問もある。料金だってそう安くはない。マイナス材料も少なくなかったが、 「ありがとうございます。前向きに検討してみます」  大地は帰宅後、ソラについて調べてみた。手段はインターネット。拠り所としたのは、鉱石に封じられていた五通りのセリフだ。  ソラの正体を知りたい欲求は、大地がソラをまだ307と呼んでいたころから芽生えていた。匿名の女性の秘密を探ることへの抵抗感から、これまでは実行に移さなかった。しかし、ささやかながらもソラへの想いを遥に語ったことで、臨界点を突破した。  セリフの内容は意識して覚えたつもりだが、ある程度の長さのものが五種類となると、一言一句違わずに暗記するのは難しい。不安は強かったが、とにもかくにも一つめのセリフを検索窓に打ち込み、検索ボタンをタップする。  初めの四つは、無関係と思われるサイトばかりがヒットした。アニメかなにかのシーンを演じたセリフであれば、関連情報がネット上に絶対にあるはずだ。そう踏んでいたので、出鼻をくじかれた格好だ。  既存の作品から借用するのではなく、オリジナルのテキストを読み上げるのが主流なのかもしれない。そう結論しかけていただけに、最後のセリフの検索結果として、アニメの名台詞紹介、といった趣向のウェブサイトが最上位に表示されたのを見て、息が止まるかと思った。  さっそくアクセスし、サイト内を探索する。「心を震わせる名言」と題されたページの中ほどに、大地の記憶と全く同じセリフが記載されていた。解説によると、問題のセリフを発したのは、作品においては脇役以下のキャラクターに過ぎないが、かっこいいとも滑稽ともつかない独特の言い回しがファンの心を捉え、異例の人気を獲得しているという。  まさか、という思いに心臓を高鳴らせながら、セリフが登場したアニメの公式サイトに飛ぶ。各話紹介のページには、登場キャラクターと、そのキャラクターの声を担当した声優の名前が記載されている。問題のセリフが登場する話のタイトルは、名言紹介サイトを観覧していた時点で把握していたが、主立った登場人物の声優しかクレジットがなかった。  失望を禁じ得なかったが、絶望はしない。アニメ作品には多かれ少なかれマニアックなファンがつくものだ、という先入観を大地は持っている。根気強く探索すれば、必ずや求めている情報にたどり着けるはずだ。  目当てのウェブサイトは呆気なく見つかった。各話に登場するキャラクターを担当する声優についての情報も、公式サイトよりも詳しいくらいだ。否応にも高まる期待感に、鼓動は痛いくらいに速まる。  熱烈なファンの力をもってしても調べが及ばない事柄もあるらしく、ところどころ空欄なのは嫌な予感がする。しかし、なにはともあれ、問題の話の情報が記載された場所まで画面をスワイプした。  ソラが述べていたセリフを担当していたのは、Sという女性声優だった。大地は初めて聞く名前だ。  Sの名前で検索をかけてみる。所属する事務所の公式サイトがヒットしたので、所属声優を紹介するページにアクセスする。プロフィールによると、今年二十歳になったばかりという若さだ。  サンプルボイスが聴けるようになっていた。高鳴る鼓動を聞きながらイヤホンを準備し、深呼吸をしてから再生ボタンをタップする。  流れ出した声は、あどけなさが感じられる甘ったるい高音で、男心を鷲掴みにする愛らしさが迸っている。ただ、媚びているような響きがあり、それが鼻につく者には鼻につくかもしれない。ローティーンの女子学生が、クラスメイトの男子の不躾な発言に痛烈に苦言を呈する、というシチュエーションのようだ。  ソラも似たようなキャラクター、似たようなシチュエーションを演じていたが、聴いた印象は大きく違う。Sが演じる少女は、自由奔放で憎めない言動で周囲を振り回す、天真爛漫なキャラクターが想像される。対するソラが演じる少女は、しっかり者の性格で、幼稚さが抜けないクラスメイトに日々ため息をついている、といった人物が想起される。  ソラと声優Sは明らかに別人だ。  藁にもすがる思いで別のサンプルボイスも聴いたが、認識が強化されるだけの結果に終わった。  ため息をつかずにはいられなかったが、スマホは投げ出さない。登場キャラクターの声優を網羅したファンサイトの存在を知ったことで、ソラの正体に迫る新たなる経路を見出したからだ。  日本全国にある美術館に展示された鉱石と、鉱石に吹き込まれた声と吹き込んだ人物の情報、それらが確認できるウェブサイトがあるのでは?  結論から言うと、あった。  見つけた瞬間は心が躍った。それだけに失望は大きかった。展示された鉱石の声の人物として紹介されているのは、すでに名前が判明している人物だけ。番号を割り振られている鉱石には一ミリも触れられていないのだ。  考えてみれば当たり前だ。美術館が調査しても分からなかったのだから、一介の愛好者が解明できるはずがない。  ソラの正体を突き止める術は存在しない――。  打ちひしがれる時間はそう長くは続かなかった。振動し始めたスマホが大地を我に返らせたからだ。妹の七海からの電話だ。 「もしもし、なにか用?」 「明日の食事のこと。いろいろ決まったから、伝えておこうと思って」  食事の場所は昨日話したとおり、市内にあるレストラン。待ち合わせは正午ちょうど。支払いは、これも予定どおり大地の全額負担。食事が終わったあとは、すぐに解散するのも味気ないから、気分次第でどこかに寄ってもいい。 「分かった。じゃあ、明日はそういう予定で」 「……兄貴さ、なんかうわの空じゃない?」  思わず「は?」という声が出た。 「なんだよ、うわの空って。僕は別に普通だよ」 「そうかな。あたしが必要事項を伝えているときの兄貴の相槌、物凄く適当な感じがしたんだけど」 「適当? そうかな」 「そうだよ。絶対にそう。なにか悩みごとでもあるの? お金がないから奢らされるのは痛いなぁ、みたいな?」 「そのくらいの金ならある。何度も言わせるなよ。欲しいのは、むしろ金では買えないものだから」 「あれ? 兄貴もしかして、恋でもしてる?」  からかうというよりも、呆気にとられたような声を七海は発した。  恋。  その言葉は大地の心から落ち着きを奪った。 「なんだよ、藪から棒に。なにを根拠に?」 「だって、お金で買えないものって、それくらいしかなくない?」 「七海らしくもない、ロマンチックな発言だな。他にもいろいろあるだろ。命とか、健康とか、社会的信用とか」  苦笑混じりに言葉を返しながらも、内心では考えてしまう。  僕はソラに恋をしているのだろうか?  しているとも言えるし、していないとも言える。恋という言葉を広く捉えれば前者だし、狭く限定すれば後者だ。  前者だと見なしたならば、歪んだ恋以外のなにものでもない。ソラに対してやっていることは、ストーカー行為も同然。客観的には気持ち悪いの一言だし、危うさを内包している。粘着質だ、という意味でも、行為がさらにエスカレートしそうだ、という意味でも。 「あたしにできるアドバイスはただ一つ。結婚を妹に先を越されたからって、焦って変な女に手を出さないようにね。ろくなことにならないから。あたしの周りにもそういう子、結構いるからね。結婚は年齢じゃないと言いつつ、三十の坂が近づいてくると慌て出す子が」 「焦り? そんなもの、ないよ。そもそも結婚願望がないんだから」 「そういう消極的な姿勢でいるから、いつまで経っても恋人の一人もできないんだって。もう少し貪欲になれば?」 「おい。さっきと言っていることが違うぞ」  ソラと結婚がしたい? そう思ったことは一度もない。大地はただ、彼女がどんな人間なのかをもっと知りたいだけだ。  もっと知って、その先は?  そんなこと、考えてみたこともない。
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