さようなら空色

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 殺風景な部屋の利点は、客人が来ることになっても慌てる必要がないことだろう。ごみ箱の中のごみをごみ袋に放り込んで口を縛ってしまうと、訪問者を迎え入れる準備は早くも万端整った。  もっとも、本日の客は身内だから、そんな簡単な作業でさえももしかしたら不要なのかもしれない。 「兄貴、来たよー」  定刻よりも少し遅れて、七海が兄の住まいを訪問した。インターフォンを鳴らすのではなく、合い鍵を使って勝手に入るという行動が、彼女の性格を端的に表している。  玄関まで出迎えると、七海はあたりを眺め回している。 「珍しいものでもある? さすがに玄関にいかがわしいものは置いてないよ」 「逆だよ、逆。相変わらずなにもないな、殺風景だな、と思って」 「片づいていると言ってくれ」 「部屋とか、マジでなにもないじゃん。引っ越し前日じゃあるまいし」  六畳間を覗き込みながら一言だ。大地は苦笑しながら「ほっとけ」と言い返す。 「うっわ! 冷蔵庫の中、空っぽだ。兄貴、普段なに食べてるの? 塵? 霞?」 「勝手に開けるなよ。腹が減ってるんだったら、さっさと店まで行こう」  コンビニの商品や、安く済ませられるチェーン店で日々の食事を賄っている大地は、その店の洗練された雰囲気には緊張を強いられた。向かいの席に座る七海の手元を盗み見、自らのナイフとフォークの扱い方に問題がないことを確かめたあと、プラスティック容器を片づけただけで終わる普段の食事の殺風景さを思った。  結婚祝という名目なのだから、それにまつわる話をするべきなのだろうが、妹とは最近よく電話で会話する。愚痴ものろけ話も出尽くした感があった。 「兄貴からもなにか話してよ。なんでもいいから面白い話を」 「面白い話、か」 「兄貴には難しいかな。昔から友だちいないし、無趣味だもんね。部屋だってあんなにもがらんとしていて、わくわく感が全然ないっていうか。なにかを新しく始めたとか、そういう心躍る変化が永遠になさそうな感じ」 「人に奢らせておいて、言いたい放題かよ」 「だって、事実だし」 「いや、あるよ。あるにはある」 「なにが?」 「趣味だよ。新しく始めた趣味」  七海は牛サーロインステーキを切り分けようとしていた手の動きを止め、意外そうな顔で兄を見返した。 「声と音の美術館って、分かる? 僕の家の近所にあるんだけど」 「聞いたことはある。興味はないけど」 「だろうな。芸術とは縁のない人生を送っているもんな、七海は」 「声と音って、絵とかの代わりにレコードでも展示してあるの? ご自由にお聴きください、みたいに」 「そういうものもあるよ。他にも――」 『K市・声と音の美術館』について説明する。そうはいっても、殆どの時間を音の鉱石エリアで費やしてきたため、詳しく語れるほど館内を熟知してはいない。ソラへの想いは悟られたくなかったので、音の鉱石エリアについては淡々と紹介するように努めたが、七海は思いがけず関心を示した。 「音の鉱石か。なんか流行ったよね、二・三年くらい前に。そっか、美術品扱いなんだね、鉱石って」 「聴いたことはある?」 「一回もない。ちょっと視聴してみたとか、そういうのも含めて全然」 「だったら、食べ終わったらいっしょに行ってみない? かなりの数の音の鉱石が聴けるようになっていて、飽きないよ」 「そこまですすめるなら、行ってみようかな。どうせ暇だしね」  七海は美術館の瀟洒な外観に感心し、館内の静かで落ち着いた雰囲気に好感を表明し、展示物に驚いていた。自分の初来館時と似たようなリアクションに、大地は微笑ましい気持ちになった。  ガイド役を務めるには知識不足の彼は、積極的に解説しながら先導するのではなく、七海が歩いていく方向にただついていく。そして、疑問質問を投げかけられれば分かる範囲内で答えた。  やがて、二人は音の鉱石エリアに足を踏み入れる。 「人、結構いるね。ちょっと雰囲気が他と違う」 「人気エリアみたいだよ。プロの声優がプロになる前に録音した石も展示されているからね。ほら、あそことか」 「うわ、ほんとだ。たかが声にそこまでって気もするけど。この透明な箱、勝手に入ってもいいんだよね?」  ソラの声を聴いてもらいたい気持ちはあったが、七海は近くにあるボックスにさっさと入った。大地はあとに続く。 「ほんとに声が聴こえる! 仕組みがよく分かんないけど、凄いね。へえ、結構クリアに聴こえるんだ」  七海のリアクションは思いのほか好意的だ。さらに二個、三個と、自主的に鉱石を選び取って続けざまに聴く。 「ねえ、男性のイケボはないの? 男の声も聴きたいんだけど」 「あるんじゃないかな。女性の声しか聴いたことないけど」 「兄貴、まさか、そういう目的でここに通ってるの? うわ、気持ち悪っ! 家でアニメとか見ていれば済む話なのに、なにわざわざ美術館まで足運んでんの?」 「イケボを所望したお前に言われたくないよ。旦那にちくるぞ、浮気してますよって」 「それとこれとは別だから」  ああだこうだ言い合っていると、ドアがノックされた。時田遥だ。 「いいですね、賑やかで」 「時田さん、すみません。つい話し声が大きくなってしまって」 「大丈夫ですよ。声の大きさは許容範囲内です。いつもは一人なのに連れの方がいるようだったから、気になって声をかけただけなので」  七海に遥を紹介し、遥には七海が妹だと伝える。遥と出会ったいきさつは割愛し、よく話しかけてくれる親切な職員さん、という紹介の仕方をした。 「クールな男性ボイスがご希望ということであれば、あちらですかね。展示されている鉱石の男女比は、男性よりも女性のほうが多いんですよ。割合でいうと二対三くらいでしょうか。来館者の男女比は逆なんですけど」 「そうなんですか。じゃあ、競争率は男性の声のほうが高いわけですね」 「そういうことになります。順番待ちの列ができるのは、プロの声優さんのボックスであれば男女を問わずなんですけど」 「なるほど。美術館巡りは圧倒的に女の趣味って感じだけど、声優オタクは男女ともに熱心なイメージですもんね」  七海と遥の相性は悪くないようで、早くも打ち解けたふうに言葉を交わしている。  この隙にソラの声を聴いてこようかとも思ったが、やめておくことにする。ソラに熱を上げていることは、できれば誰にも知られたくない。 「時田さんだっけ。今日案内してくれた女の人」  帰り道、七海は唐突に兄に話を振った。大地の自宅のアパートもあと百メートルほどという、閑静な住宅地の細道でのことだ。彼は頷いて先を促した。 「あの人、めちゃくちゃ濁声だったよね。きれいな声ばかり集まる施設で働いているのに、ああいう声をしてると、周りからいろいろ言われるんじゃないかなぁ」  大地は思わず足を止めた。釣られたように七海も立ち止まり、きょとんとした顔で兄の顔を見返す。大地は眉根を寄せて妹を睨む。 「お前、見損なったぞ」 「は? なに、いきなり」 「馬鹿なところもあるやつなのは分かっていたけど、そういうことを言うとはね。見損なったぞ。心の底から見損なった」 「いや、だからなに? なにが気に食わないわけ?」 「時田さんの声のことだよ」  ああそのことか、という顔を七海はした。大地は少し語気を強める。 「原因について尋ねたことはないけど、なにか事情があってそうなったんだろ。それを悪く言うのって、違うだろ。たとえ本人がいないところでも。もし本人の前で言っていたら、お前のことを殴っていたかもしれない。人生で初めて」 「いや、初めてじゃないし。兄貴、覚えてないの? あたしが小学三年生のときだったかな。ついうっかり兄貴のプラモデルを壊しちゃったときに、こっちが謝ってるのに頭叩いてきたじゃん」 「僕が泣きながらプラモを直しているところをしつこく邪魔してくるから、堪忍袋の緒が切れたんだよ。今でも覚えてるけど、あのときのお前、そうとうしつこかったぜ? 冗談でもなんでもなく殺意湧いたもん。七海は人が弱みを見せると――って、今はその話じゃないから」  口元に握り拳を宛がって空咳をし、脱線していた話を元に戻す。 「僕と二人きりだからこそ、そういう不用意な発言も出たんだろうけど、今後は気をつけろよ。いや、これはマジで」 「違う、違う。あたしが言いたかったのは、周りが声のことでいろいろ言ってきそうだから大変だな、ということであって、あの人の悪口を言ったわけじゃないから」 「でも、たとえばだよ? たとえば七海が時田さんの前でそう言ったとしたら、時田さんは確実に傷つくと思うんだよ。人と違うものを持っていると、どうしても他人の目を気にしてしまうものだから。時田さんは多分、客の前では気にする素振りは見せないと思うよ。でも、心の中では確実に傷ついている。七海にそのつもりはないのだとしても、傷つける余地がある言葉を軽々しく口にするのはよくないよ。絶対によくない」  説教くさいな、と思う。説教にしては締まらないな、とも思う。ただ、苦言を呈する必要は強く感じていたから、己がとった行動を悔やむ気持ちは微塵もない。  七海は無言のまま歩き出した。機嫌を損ねたかな、とも思ったが、二・三メートル先から振り向いて、平然とした声で、 「あの人は気にしないと思うけどね。動揺したけど表には出さないとかじゃなくて、そのままの意味で動じないと思う。直接的な言葉で罵倒されたならまだしも、少なくともその程度では絶対に気にもかけないよ」 「随分自信ありげだな。そう言い切れる根拠は?」  少し早足になって横に並び、問い質す。回答は即座に返ってきた。 「そのくらい強い人間じゃないと、ああいう場で働けないよ。コンプレックスはもう克服済みじゃないかな。話をしてみた感じ、そんな感じがしたけどね」 「……そうかな」 「そうだよ」  断言したのを区切りに、七海は別の話題について話し始めた。  くだらない話に相槌を打つかたわら、本当のところはどうなのだろう、と大地は考える。  記憶が確かなら、遥は彼との会話の中で、自らの声にネガティブな評価を下したことはなかったはずだ。しかしそれは所詮、知り合って間もない客相手の態度。本心ではどう思っているのかは闇の中だ。  大地は『声と音の美術館』を訪れ、鉱石に封じられた声に触れたことで、声が持つ素晴らしさを理解した。抑制した表現ではあったが、美しい声を賞賛した。遥相手に賞賛した。遥は自らの濁声にコンプレックスを持っているかもしれない、などとは考えもしないで。  表面化させなかっただけで、内心では気を悪くしただろうか。それとも、なんとも思わなかっただろうか。  遥の内面に想像を巡らせば巡らせるほど、知りたい気持ちは強まっていく。  怖い気持ちは当然ある。しかし、それでも知りたいと思う。
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